なんだ、そうだったんだパート2。パート1があるのか忘れたけれど。

ボランティアの仲間と顔を合わせた。今日は子ども向けのボランティアの活動でちょっとした集まりがあったので、会場に集まり、話を少しした。今までの活動が長い人と話をしていると、みんな苦労して通って来た道があって、それまでにいろんなことを思いながらやっているなぁと最近思うようになった。家のことや親のこと、その他諸々が広がっている中で、何度となく「仕事だけやらせてくれよ」と思ったことがあると言っていた。人って生活して生きて行く中で、いろんなつながりの中で生きているから、自分だけのことをやりたいと思っても出来ないことも多いのだ。そんな話を今日も聞いていた。

基本的に自分のことより人のことを優先にして時間を譲ってしまった場合、どこまでそのことを自分に対して許せるのかをわかっていないとダメなのだなぁと思う。ボランティアをやっている周りもみても親切な人が多い。頼まれたら断れない。それでも、やはりどこまでだったら人のことを優先していてもいいのか、という線引きをきちんとしていないと、周りからの要求はエスカレート、なんでもかんでも頼まれ事が増えて行ってしまうのがよーくわかって来た。自分がちゃんと線引きをして行かなかった結果というか、今まではとりあえず何でもやってみてから考えよう・・と思っていたので広がり過ぎてしまったが、ここらで無理なものを削ることにした。

増えてもいいのだが、自分がどうなのかがわかっていないとしんどくなるのがやってみてわかった。やっているそのものが苦手なのか、量的なものなのか。たぶん苦手な物事をやっていることより、自分の時間をものすごく割いて犠牲にしていることに気が付いていないとき、なんとも言えないストレスを感じて億劫だったり、やりたくない気持ちが出ていることに気が付いた。予定が毎日入っている生活が体力的にダメにもかかわらず、知らず知らず取り込まれて、要求されたことをこなそうとしていた自分がいたなぁ。誰かと同じように動くのは無理だって。周りもやってくれそうな人を常に探していて、どんどん要求してくるから気をつけなくては。

今は自分の予定の負担にならない程度の量を引受け、あとはやめることにした。断ると「忙しいんだ」「仕事なの?」「予定有るんだ」といろいろ詮索されるが、自分の理由を言っても納得するとは思えないので、言わないで断っている。仕事をしていないことを知っている人は、何だか私が100%ガラ空きの日中を過ごしていることを思い浮かべているだろう。今にも「仕事をしていないんだったら出来るよね?」と言われそうだ。大きなお世話だ。基本的にはガラ空きの生活をしたいと思って生きているのだ。今日も午前と午後両方の時間に活動予定を組み込まれそうになってしまったが、早めに断った。もちろん、高尚な予定はない。デコレーションケーキを注文して今日食べるケーキを買って、帰宅して、昼食を食べながら映画を一本観たところだ。

誰も、無理をしてはいけないんだよ。気持ち良く物事を続けるためには、自分が負担になる日数を知ることだ。それで日数が少なくてお声がかからなくても仕方がない。逆にそれでもいいなら続けられるというもの。能力の差、苦手なものの差だって仕方のないこと。日数や時間に関してはそれこそ自己犠牲は良くない。メール一本出すのだって、自分の大事な時間を差し置いて優先するのは時と場合と自分の気分による。これまで目についたり気が付いた物事をどうにかしようとし過ぎたなあ。ボランティア活動がすべて嫌いにならないうちに、日数をたくさん減らすことにした。

自分の感じ方ひとつで負担になることも気分が盛り上がることもあって、その後の行動がすべて変わってしまう。何が嫌なのか、何が負担なのか、何が楽しいのか、何が自分をやる気にさせているのか。細かく知ることで、面倒くさいなと思ってすべてポイっと投げてしまうかどっぷり浸かるかという自分の癖にストップをかけている。面倒くさいと平気で捨てるか、いろいろと丸飲みするみたいに出来ちゃうんだけれど、それは以前より少しもったいない気もしているのだ。少しずつ齧る、みたいなことをたくさん取って置きたい。ずるくなったのか?いえいえ、少し賢くなったのです。

では今日はここらへんで。