今日もボランティア。高齢者向けの食事会を開催している。集まった仲間は気心の知れた人ばかり。自分も参加すると、ただ夢中になってやって、一緒にご飯を食べて、最後にはお茶を飲みながら次回の打ち合わせをする。今日は他の愚痴も聞いてもらった。最近はなるべく自分も愚痴を言うようにしている。周りの人が言うだけでなく、自分でも言ってみて、どんな感情も誰でも抱くのは当たり前だなぁと思うようになった。違う意見を持っていたり、どんなことに対して怒ったり、心が引っかかったり、不満に思ったり、みんながどんなことに対して何を思っているのか、それを知って行くようにしている。
実のところ、今までは物事を遂行することばかりに夢中で、人のことにあまり関心がなかったのかもしれない。人自体に興味関心をあまり示さずに、大半のことは気にしないで穏やかに過ごす方が良いなぁとどこか思っていたのかもしれない。けれど、人と人が関わっている中で小さくても突然湧き上がるいろんな感情が噴出する瞬間がある。今日一緒にいた仲間は、割と思っていることを率直に話す。どんなふうにみんなが自分を収めて来ているのか、知りたくなって来た。いつもの穏やかな姿ではなく、ちょっと違う姿を見せてもらっている。いや、勝手に見ているのだが。
見て行くうちに気が付いたことがある。自分では無理をしているつもりもなかったけれど、ちょっとした嫌な感情をすぐにポイっと捨てるようなところがあって、自分自身にも無関心だったのでは?と今になって思うのだ。物事を遂行するだけにどこか集中していて、自分の心の動きは後回しにしていたような感じだろうか。形にしたいことがあると、自分やそこにいる人の気持ちや様子等に目を向けず、どうしたらコレが形になるのか?ばかりに目が行っていたように思う。確かに形にはなるけれど、それって自分にも人にも形になるまでの間はキツイよな~と思ったのだ。
「強いんだね」とよく言われたけれど、それは何かの目的を達するための良さでもあるのかもしれないが、強い=無理がある、普通じゃない、ということを意味しているよなぁ。そこに生きている「人間」に厳し過ぎるということ。見えていない、気が付いていないというより、どこに物事の焦点を当てるかで、気にならなかっただけなのだと思うが、どうだろう。今は、そこに生きている人に目を向けて、自分のことも見えて来ている。ほんの少し、焦点をずらせば、見えて来るものが違うもんだなぁ。
今まではたぶん、大事に思っている相手や家族に対してはそれなりに見えていたのだと思うが、関心のないその他大勢と自分自身に対しては、そこに湧き上がる感情を無視して「そのくらい我慢しろよ」とか「当然冷静にするものだ」と思っていたんじゃないかなぁと思う。よく耳にすることだが、簡単に言えば自分に厳しい人は人にも厳しいということ。自分に要求していることも多い分、他の人にも同じように要求していて、応えられない状況を見ると「何でだ?」ととても驚いていた自分がいたくらいだ。今そんな自分がいたことを思い出して書いているのだから、その自分と今の自分とでは感覚がもう変わっているはず(断定は出来ないけれど)。自分に対して優しくなった分、関心の無かった相手に対しても優しくなって来た、といったところだろう。
まぁ、形にしたい何かも大事だけれど、最後には「人」なんだろうなぁ。過去にも未来にも現在にも、どこを切り取っても結局大事なのはそこに生きている「人」だよってことに行きついて来たような。世間で昔から言われているようなそんなことを、まさかこんなところで書いているなんてなぁ。人って変わるもんだな。
では今日はこのへんで。