このかごに入っているのはたくさんの紙くずじゃない、大切にしている私自身なんだよともうそろそろ言ってみようか。

ある絵本作家さんの展示会に行って来た。アイデアスケッチがたくさんあり、しかも細かく書いている。日々何かを見つけては書いていたらしき手帳のような物がたくさん展示されていた。その記憶のメモリーブックのような物を目にして、人の頭の中を覗き見したような気分になる。

絵本作家の人が外に出している量は確かにすごいとは思うのだけれど、どんな人でも、ものすごい量のことを常に感じて考えているのだよなあと思う。たまたまそれを外に常に何らかの形として出していた物でのみ、そのことが改めてわかるだけのこと。もちろん「出した数」「出て来た物」は素晴らしい量と作品、アイデアではあるのだが。誰でもこれだけのことを実はやっていながら、誰かに伝えようとはしていないか、伝えるのを避けていると思う。考えていない人、感じていない人などいるのだろうか?自分のものを外に出して行く上手な方法や手段がなかったり、わからなかったりしているだけではないだろうか。出したとしても、その形にしたものを常に捨てている、ということもあるのだろうなぁ。

という私も同じである。形にしては捨てている。しかも形に出したとして、残してみても上手ではないなぁ。どちらかと言えば不器用。また捨てたくなる。その繰り返しだ。けれど、ここらで残して、どんどんやってしまえばいいかなと思っているところだ。毎日毎日、何か思わず好きでやってしまっていることを続けて行くこと。最近ではブログやピアノが浮かぶなぁ。ピアノはどんなに形にしても自動的に一瞬で消えてしまうのだが。身に残る、再現性はあったりなかったり。こうやって書いてみると自分の演奏という代物は誰かの役に立つとは思えないよなぁ。

まあ、これらについて、役に立つかどうかは考えなくていいのだろう。どうせ、それを抜きでは自分の人生を考えられないのだから。人が作ったケーキを週に何回か食べることも、そうだ。実用的じゃない本ばかり読んだり、使わない語学の勉強もそうだ。ただただ自分の人生を続けて行くための今日の楽しみでしかないことばかりである。楽しみばかり。そのせいか、それが自分自身を作っていることを忘れてしまいがちなのだ。「こんなくだらないことを」なんて思わず言ってしまって。

一般的に意味のあることや役に立つことなんて、自分の人生の中でどのくらい意味があったり、役に立つのだろう?自分の人生の身代わりになってくれる人なんて誰もいないのに。だから私はくだらないな、と思ったときには一旦考えてみることにしている。自分が本当にくだらないと思っているのか、世の中の価値観でくだらないと思ってしまったのか。無意味だと思ったなら、それは世の中にとって無意味なことなのか、自分にとって無意味なのか。誰にとってなのか。大いに重要だ。

ふと、ここで思い出す。「常識の範囲内で考えて」という言葉が大嫌いだ。どうせ言った本人の常識の範囲内だからなぁ。何も示してなくて、とってもバカバカしいなぁって思ってしまう。もし自分がその言葉を使ったなら、自分の常識の範囲内で考えてるから良いですよね?ということで、相手に自分の常識をゴリゴリ押し付けるときかな。ああ、言っている相手もそうだよなぁ。納得。

さて、今日は太陽が出ていてスコールみたいな雨が降ったから、今とても涼しい。テーブルの上のマンゴーの種が成長してたくさん根っこも生えて来た。この暑さだからか?アボカドも強い雨に打たれて少し曲がってしまったが、こんなに暑くてスコールのような雨が降る環境にはピッタリな植物に見えるが、本当はどうなのだろう。暑くてぐったりしているのか?どちらも太陽の方を向いて曲がって伸びている。葉っぱも似ている。こういう環境の植物はもしかして真っすぐじゃないんだ、きっと。葉っぱも下にだらりと長く落ちていて、光が欲しいのかどうなのかわからないなぁ。調節しているのか?広げたり、ダラ~としたり。そういうものなのかなぁ。明日日差しが強いときにまた見てみよう。

屑籠行きの言葉を今日もたくさん並べてみた。今日はこのへんで。