自分の日常を乱すことが出来たらラッキーです

食っちゃ寝して生きているだけであるが、それを咎められるような言葉として使われている。たとえどんなエラソーなことをやっていようが、何をしていようが、全員が全員食っちゃ寝して生きているだけというのが基本であると思う。全く食べない人もいないし、全く寝ない人もいない。生きている間は生きているだけである。その生き様はそれぞれ。誰かに迷惑をかけて、そうその通りで、かけられていると思う相手がいたら、まぁ、大変なのだが。

家にある調味料となる食材が少なくなっていて、気が付くとアレが無いコレが無いという事態になってしまった。今日もコーンスターチを買うのを忘れていた。照り焼きソースを途中まで作ってしまって、とろみをつけようとした段階で気が付いた。何か使えるものは無いだろうか?引き出しに入っているのはだんご粉と白玉粉。粘りが出ちゃう?わからないけれど、ほんの少しとろみがつけばいい。もち米100%の方で試す。ちょびっと入れたけれど、おはぎでずっともち米を食べているから、違う方法がいいなと思って止めた。冷蔵庫の中を見て、菓子作りでたまに使っているゼラチンを発見。タルトに乗せた飾りのフルーツに照りをつけたりするときに使っている。ああ、これ使おう。ちょうど煮えたぎったソースの中に入れる。すぐに溶ける。熱々の時はナンだったが、少し冷えたらちょうど良くなりそうだ。どっちみち、テキトーである。

食材も少なくなって来たときに他の物を使って試すというのは新しい発見があって楽しい。今回作ったおはぎも、もち米100%で作った。いつもはうるち米も混ぜていた。でも最近ではずっと主食が玄米だ。うるち米が無い。わざわざこのおはぎのために少量を買うのもバカバカしい気がする。でも玄米と混ぜて炊くわけにも行かず、仕方なくもち米だけのおはぎレシピを検索。うまく炊けば大丈夫かもしれない。そう思って一応いつもよりも丁寧に米を研ぎ、水を替え、浸し時間を守り、水を切り、水量を計って炊いてみた。炊き上がった後はつかなくてもいいようなので、そのまま蒸らして置いた。ちゃんと成型出来たし、硬さも良かった。なーんだ。いいじゃないか。

今回おはぎレシピを新調するきっかけになったゾ。今まで米には塩を入れていたのだが、レシピにある通り塩を入れず、もち米のみで炊いてみた。結果は良好。おはぎをいつも食べた後少し胃がもたれるような感じがあったのだが、それも無い。もしかしたら今まで作っていたおはぎの塩が多かったせいかもしれない。そんなことに気が付いた。それに、うるち米が入っていると、出来たては柔らかいが、日にちが経つと硬くなっていたが、もち米だけだとそれ程でも無いということもわかった。よしよし、今後はもち米オンリーへ変更だ。

物が少ないと何も出来なくなるわけではなく、使い様が変わるだけなのだろう。もちろん何にも無ーい!となるとダメかもしれないが。まぁ、いつも「コレ」と決めるより、変化が出るんだな。無いなら無いなりに出来ることはあるのだ。毎日きっちり決まったことばかりやっていたら、確かに不安も無いし、同じことが出来て安定した生活なのだけれど、こういった変化を知るきっかけや機会が無くなってしまうよな。満ち足りているよりも、何かが足りない位が面白くなるのだろう。毎日ほんのちょっと乱す、そういう感じでいい。まぁ、自分なんかは頑張ってみたところで、同じことを続けるなんてことは出来ないので、勝手に乱されているけどネ。

では今日はこのへんで。

別に、こういうことを言いたかったわけじゃないんだけどさ。

スマホに変えてから丸3か月程経った。その間一度もスマホの電源を切らないまま過ごしていて、これでいいのだろうか?と気になり、今朝切ってみた。と言っても、切るまでが大変である。スマホというのは、スマホの操作を設定することも含め、その操作自体をまずは調べてみなくてはならない。一般的なスマホの電源の切り方を調べてやってみたが、切れない。専用のヘルプサイトみたいなところから見てやってみても、ダメだった。これは仕方ない、切れないのか?と思ってしまったが、違う人が書いている説明をいくつか見て、自分のスマホの設定が違っていることに気が付いた。

「なんだよ。全く。」と思う。知ってしまえば単純な操作だが、そこに行きつくまでがもどかしい。しかも指示通りの電源マークというものが暫く出て来なかったので、差し示しているものと違っているのではないかと勘ぐる始末。まぁ、それは間違いではなかったのだけれど。それぞれのマーク等、表示の言葉の見落としに気がつかないこともあるよなと思う。慣れている人とは見えている世界が違うのだよ。いや、でも、どこまで慣れるというのだろう。完璧にすべて把握しているということはあり得ないだろうなぁ。どんどん変わって行くものだしネ。

電源を切ってみて気が付いたのだが、電源を付けたときに変化を感じた。スマホ自体がひんやりしているのだ。たぶん、使い始めてからずっとほんの少し熱を帯びていたのだろうと思う。気が付かなかったけれど、本体はふぅふぅ、ハァハァしていたのだろう。少しスマホ本体はクールダウン出来たんじゃないだろうか。たまにはお休みを取らないとダメなのかと思うと、スマホは単なる機械じゃないんだなと思う。

ただ、スマホは最初に書いた通り、スマホを操作する等を知るために調べなくてはならないというのが問題である。これ、スマホしかない人はどうしているのだ?スマホを使うためのスマホがないと、結構困る~ってやつじゃないか。自分はPCも繋いでいるからネット環境が二つある。スマホ一台です、という人は困るじゃないか。トラブルがあったときにもどこへ連絡するにも、そのスマホの機能が使えないと困るということに陥る。電話という物のように単純じゃないから、なんだか大変だ。結局のところ、何らかの手段はいくつも持っていないとダメなんだな。面倒くさいもんだな。

それなのに高額なお金を支払って、みんなが当然のように手に入れようとする。すごいよな。今でも外に出ているときの自分はスマホを単なる通信手段としてしか利用していない。だからスマホを持たなくても良かったかもしれない。画面が小さ過ぎて全体像が見えないことが不便である。何か情報を拾うためには今でもPCを開いてしまうよ。無くても困らないとは言わない。今の世の中は「無いと困る」ように仕向けて出来ているからな。お金の無い人もそのうち買わされるのだろう。本当に必要なら国が配れよって思うよ。

みんなが同じように暮らせることが幸せとは思うけれど、そんな中でスマホは要らないとか持ちたくないとか言うと、足並みを揃えない悪い奴と思われるのは、どうも違うなぁ。あるボランティアをしているときに、連絡手段がスマホじゃないだけでめちゃくちゃ嫌な顔されたことがある。その中に携帯を持っていない人もいたのだけれど、その人に対しても嫌な顔していたなぁ。迷惑な話だ。スマホを持たないなんて普通の常識のある人じゃないからと、簡単に社会から締め出して、追い出すような圧力をかけているように見えるよ。まぁ、相手からしてみてもスマホを持たないことは不便で迷惑だなぁって思ったのだろうけれど。自分はそのボランティア活動が終わるまでスマホに変えようとは思わなかった。無駄な抵抗だが、抵抗してしまったなぁ。

なんだかんだ言っても、そうやって社会が最低限の文化的な生活というレベルをどんどん上げて行くんだ。上げて行く、というのはかかるお金を上げて行くんだな。経済的な費用が高額になって行くのだ。便利さを強調し、よりお金がかかる生活の仕組みをさも当然のようにそれが幸せだと思い込ませているんだなぁと思う。社会の中で幸せになるにはお金がたくさんかかる仕組みがあって、かかる費用のために人は働き、それでまたお金が動いて・・・の繰り返しなのだろうとは思う。やっぱり、お金が中心の社会なのだなぁ。

さて、スマホにしてもこのPCにしても、高額なお金が動いている。本体を買い、通信費を払い続けるために、自分もお金を稼がなくちゃならない。その労働から得るお金は、その便利さというものに支払うときに等しく見合っているのだろうか。自分は疑問である。例えば衛星をわざわざ飛ばして使い、どこでも自分の電波が繋がるとか。そこまでして繋がって欲しいと思う利用価値がスマホに対して自分は無い。なのに、自分のスマホや普段の電波利用の際に平等に上乗せされ、大して使わない人も高額になって行くんだろう?しかも次の世代が新しく買うことも見込んでの先行投資、それは勝手に作られた借金のようなものだ。その借金を解消したくて背負わされているのだから、どんどん買わされる、使わされるよなぁ。そうやって社会の仕組みとして、どんどん働くように仕向けられている気がするよ。ヤダヤダ。

では今日はこのへんで。

自分が変わるのが先か、それとも物を手放すのが先か・・・みたいな。

朝からダラダラして、本を読む。盆なので、おはぎを作っておいたから、食事の支度には困らない。昨日ケーキ屋で買った焼き菓子もいくつかあるので、今日は甘い物が多い。野菜も冷蔵庫にあるし、魚もいくつかある。食事に困らないというのは先のことを慌てて考えなくて済むので、のんびりとダラダラ出来る。

けれど、本を読むと目が見えにくくて落ち着かない。天候のせいで暗いからかと思ったが、縦書きの文字のせいなのかという考えに至る。もしかしたらそういうこともあるかもしれないよな。今はすっかり横書きの文字に慣れ切っている。生活の中で横書きの物が増えに増えているのだから。自分の目の運動の向きが大分変化してしまったよ。白紙に文字を書くときも、いつの間にか縦書きではなく横書きで書き始めることが多くなった。「文章を書く」というときには「右から」「縦書きで」という感じであったのになぁ。今思い出しても、高齢者の食事会の時に献立をホワイトボードに縦書きで書くとき以外はほとんど縦書き仕様が浮かばない。スマホも横書きがメインだしな。周りの環境に体が慣れて行ってしまったんだろう。

そうだな。自分の身の回りにある物の影響は大きい。普段過ごしている環境というのは、必ず影響しているものだ。それを感じたのは他にもある。最近少し模様替えをしているときだった。本当にほんのちょっとのことではあるのだが、椅子の位置を少し移動し、テレビの高さを変えて、飾りとして置いてある物の位置をほんの数センチ横にずらした。たったそれだけなのだが、ガラッと変わる。視線の奥行きが変化して、空間がより深くなる。意外とそれだけで空気の流れも変わって、自分の動線も変わっている。体の動きにつられて、気分もかなり変わったのだ。

恐らく、物を1個動かすだけで、人への影響は大きいものなのだろう。よく言われていることだが、部屋の物が多過ぎてごちゃついていると、それだけで無意識下でストレスがたまるらしい。自分は元々物が多いと頭がごちゃついてストレスを感じるのだが、普通の人だとしても知らず知らずにストレスを感じるのだろうと思う。何か行き詰まったら掃除をしたり、物をどかしてみたり、捨てたりするというのは気分をリフレッシュ出来る策のひとつだな。

明日から仕事という人も多いだろう。まぁ、自分は5日間もケーキ屋の手伝いが無い。途中で友人との運動の集まりや合唱の練習も入るけれど、時間帯が遅いこともあって、普段の時間より気持ちはゆったりしているかもしれない。昼間、本を読み、これまた家具を少し移動してみたりして、今までの夏休みの気分を少し変えてみる工夫をしてみた。とてもいい感じだ。

昔から身の回りにある使える古い物を使い続けることにこだわっていた自分がいたのだが、少し前から「もういいかもな。」と手放す物が増えて来た。ちょうどいい機会なのだろうと思う。過去の遺物というか、「コレに見合う自分がいない」とか「自分の今の思いとはズレている」とか、すでに「何にも思わない」という物も増えていたことに気が付いたのだ。知らず知らずに過去の思い出さえも消えて、ただの壊れた物や使い古した物などが残っていて、自分では時間をかけてどうにか出来るような物では無くなっていたりする。自分では手に負えないなぁと思うのだ。

きっとこれからを生きる自分には要らない物が多くあるよ。あと10年経ったときに、体力が落ちる中で大変な思いをして片づけたりするよりは、今やっておけることはやっておこうと思う。というか、身の回りはいつも軽い方がいい。まぁ、人から言わせれば、物は少ないのだがネ。きっと今の自分にはこれでも多過ぎるのだろう。焦りはないけれど、自然に手放し始めているよ。そう、これからを生きるという感覚に、古い荷物は少ない方がいいんだよなぁ。

では今日はこのへんで。

 

 

 

特別じゃないことを続けられることが特別なのだ

ケーキ屋で餅と格闘して来た。店主がお餅好きなので、ケーキにも多用するし、ヒンヤリスイーツとして、パフェみたいにも加えて使う。今回は果汁がたっぷり入ったお餅を作ったので、ひと口大に分けて丸めて売ることになった。その餅が普通の餅よりも果汁で水分が多く、糖分も多い。毎度のことだが切り分けるだけでベタベタとくっついて来る。今日はさらにベタベタで、手袋の先に固まってくっついた。上手く行かない。かつて格闘したときは、もう少し綺麗に出来たというのに。あー、ダメだな。とりあえず、重さを計って切り分けだけを先にやり、小分けにした。

店主も手が空いたので、一緒に丸める。まぁ、店主も今日の餅はなかなか上手に丸く出来ない。加工するのには、いつも二人で格闘するしかない。自分と店主が違うのは、恐らく必ず綺麗に丸くしてやろうという気持ちが根底にあるか無いか・・・かもしれない。今日の自分の気合は足りなかったな。ははは。でもこれって、傍から見たら滑稽だ。いい大人二人が気合を入れて小さな小さな餅を丸めているのだ。他の種類も含めて全部は仕上がらなかったが、ひとまず1種類は出来た。途中にお客さんたちが来る度、白い粉をエプロン周りに付けながら、パタパタと動き回り、今日も一日ケーキ屋の手伝いを終えた。

夏のケーキ屋はお客さんが少ない。昨年の夏は店の朝掃除を覚えるため、暑い中通ったが、お客さんが来るような時間までは店にいなかったこともあり、今年の夏はまた違った印象を持つ。確かに冬の繁忙期よりは日々お客さんが少ない。店主も確かに夏はお客さんが少ないけれど、今年はさらに減っている気がすると言っていた。今朝、店主から「国内の菓子店の閉店が過去最多らしい。」と聞いた。自分も閉店や倒産などのニュースをたまにチェックしているが、その数はさらに増えているようだ。来年4月に消費税1%になるとは言っても、これまでにかかった材料や備品等を考えると、ケーキを安く出来る訳でもない。自分がいる店は消費税を分けて表示しているから、見え方はほぼ変わらないな。納める税金の額は変わるけれど、売り上げが上がるかはまた別の話だろう。

そんな話をしていたときに、店主が手にしていた苺のケーキの値段を聞いてみた。それこそ仕入れているフルーツは大きく変動することも多いからだ。定番の苺ショート。この間からちょっと安く提供しているなぁと思っていた。苺自体があまり良くない、傷みが早い等の理由もあって、小さめの苺を仕入れていたので、価格が安いのかと思っていた。「今日の値段は?」「○○円だよ。今月からは変えていない。」「えっ?」・・・ヤバイ。

店主が言った値段とは自分がメモに取っている値段が違った。半月以上自分は間違えていたのだ。その差50円ほど。何度も毎日見て確認しているというのに。ああ、失敗したな。自分が見たときに見間違いやすい文字だったのかと思い、改めてトレイに出している値札を確認。すると、税込み表示は店主が思っていた金額だったが、本体価格で出している金額は自分が思っていた金額。お客さんが見るのは本体価格でもあるし、自分もその価格でレジを打つのでメモを取っている通りであった。

「うわっ、なんでこんな金額を書いてしまったのだろう!」と店主が間違えたことに気が付きショックを受けている。店主が手書きでいつも書いているので、本人が書いた値段が確実に違っていたことになる。自分が間違っていなかったことについてはホッとしたのだが、結局店自体は金額の間違いがあったことには変わりない。このタイミングで気がついて良かったのだが、本当にショックだ。日々、1個につき数十円という金額が大きく差が出る。こういうミスは税金云々の話の前に、きちんとしないとなと思ったよ。たまたま自分のミスではなかったが、たまにこんなふうに改めて確認したりすることで防げることもあるんだな。

小さな店だからこそ店主中心で回っているのだが、店主自身が思い込んでいて本人の思いと違ってしまっていることもある。それに最近では上の階の住人とのやり取りで神経をすり減らしていることもあって、他の用事等も増えて、集中力に欠けると自身でも嘆いている。自分の目で確認、声で確認、さらに人を使って確認だよ。自分は性格上いろいろ確認をすることが多くて、店主に手間をかけさせてしまっているところもあるけれど、役に立っていることもあると思える。また自分が出来ることを探して、店を続けて行けるよう頑張ろうと思う。

今日は終戦の日。盆だし、おはぎも作った。自分が生まれてから何度この日を迎えただろう。昨年よりも、終戦が続いている今日という日が大事なのだなと思う。また来年も、同じように終戦の日を迎えたい。戦争を振り返り、馬鹿さを学び、戦争をしない毎日を続けることだ。お腹が空いて来た。それをごく普通に感じて、ご飯を食べられる幸せな日だ。では今日はこのへんで。

 

 

煮え切らない位でちょうどいい?

至る所で自然災害が起きている。日本は本当に災害が多い国だ。それでもみんなそれぞれの場所で、何度も何度も生活を立て直しながら住み続けている。この国を奪おうとする国の人たちから見て、何が魅力なのだろう。いや、魅力は一杯だと感じて生きている自分もいて、だからこそ住み続けているのだと思うのだが。他の国の人がそっくりそのままただ移動して、住み始めたとしたら、暮らして行けるのだろうか。今は日本の人々が作り出した整えられた日本であるからこそ、過ごしやすいのだろうと思うよ。他の国が単に移り住んで来たとしたら、途端に苦しくなって逃げ出してしまうのではないだろうか。

そこにある暮らしや文化というものは、その場に長く住み続けたたくさんの人々が関わって作り出されたものである。地震はほぼ毎日起きているし、台風も来る。火山も噴火するしね。津波も地震によってはすぐ来てしまう。大雨が降れば洪水や浸水、土砂崩れも起きる。自然災害は書いたら限がない位、いつもどこかで起きている。アレがあったのに、コレも起きてしまった。さぁどうしよう・・・と思うことの連続なのだ。どんなメンタルしてるんだ?!と思われても仕方が無いような暮らしをしている。

とはいえ、他の国と比べても気温が適度ではある。まぁ、最近はそうでもないけれど。すべてが凍ってしまう程寒い場所ばかりではないし、そこにいるだけでずっと温度が下がらず暑過ぎる場所しかないというわけでもない。季節が変わり、湿度が高くなるのは結構辛いかもしれないな。それでも日本のどんな場所もどんな時期も、一長一短があることを認識して、暮らし方を改良しながら過ごして来たと思う。言わば、どの日本人もずっと努力し続けて生きて来た感じだ。それで今の日本があるんだよな。

この場に生きて生活している人たちが、災害が起こった時にどんな反応をして来て、どんな対応をして生きて来たのか。少しずつ世界中の人が同じような暮らしをしつつある感じだけれども、きっと何か起こったときの反応の仕方は未だに他の国の人とは異なるのだろうなぁと見ていて思う。日本という土地に住むための「慣れ」には時間がかかるだろう。それとも慣れる前に逃げ出すだろうか。

ふと、もし占領されて、日本人が国内から締め出されてしまって、新しい人種の人たちのみが入って暮らし始めたらとしたらどうなるんだろう?と想像していた。締め出された日本人は、最近どこの場所でも暮らし方が似て来たとはいえ、その土地に合った多種多様な暮らしを今でもしているわけだから、どこへ行っても意外と暮らして行けるのでは?と思うのだが。まぁ、国から追い出された民族は、定着出来ず、ずっと流浪の民となるのだろうけれど。

そうやって考えてみると、自分が日本人であり、今住んでいいという国があるというのはとてもありがたい話である。でも、実際はじわじわとその境界線を狭められているのだろうか。日本は海が周りにあるせいであまり感じられないのだけれども、線の上のそのせめぎ合いをずっとしているなのだな。境界線が移動させられて行くこともある。長い年月をかけて境界線のせめぎ合いをしているのは事実であるが、すっきりとは出来ないものだと思う。

すっきり出来るという時は大抵戦争をやって、その戦争が終結したときなのだ。嫌だなぁ・・・。その戦争中に自分が死んでしまうかもしれないんだゾ。結局のところ、外交でいかに戦争を始めるのを先延ばしするか、なのだろう。始めたらなかなか終われないからネ。

さて、明日もケーキ屋の手伝いに行く。お盆の週末でもある。自分は小豆を煮始めたところである。では今日はこのへんで。

 

 

 

 

絶対なんてものはないよ、ゼッタイ!

雷の音が午後からずっと地面を伝わって鳴り響いている。自分が住んでいるところだけ、なぜかぽっかりと雷雲の間のようで、雨雲がかかっていない。うっすら弱い雨だけが今も降っているだけだ。虫も鳴くような有様で、おそらくここだけ嵐からかけ離れている。今日は雷があまりにも音が響き、半日以上鳴り続けていたので、慣れてしまう。恐ろしくも無くなってしまった。慣れって怖いものだなぁ。

とはいえ、自分が雷に当たったり、雨に降られるのは嫌なので、雨雲レーダーを見ながら昼間のうちに早めに買い物を済まして来た。たった一時間程度の晴れ間を使って、ちょうどいいタイミングで買い物を終わらせて帰って来ることが出来た。その間も、どこか少し遠くの場所では雨が強く降っていたのだろう。自分のいるところは青空と日差しが照っていて、雨のために持っていた長傘を日傘代わりに差した。それ位、場所によって天気が違っていて、なんとラッキーなことなのだろう。自分はこんなところで恵まれている。他のことが上手く行かなくても、恵まれている状況にあると感じることが出来るのならば、かなり幸せな人なのだろうと思う。

台風や大雨で警報級の自然災害を感じると、なぜか必ずと言っていいほどドーナツを作ってしまう。腹持ちがいい?からかもしれない。豆乳を入れたパン生地で気長に発酵させて作るのだ。以前もかなり強い台風が家にぶつかっているようなときに、自分はせっせとドーナツ生地を作り、大風や大雨の音がしている間、油でドーナツを揚げていた。今日も天気予報では散々な天気が予報されていたせいか、どうしてもドーナツを作りたくなってしまった。食べるタイミングが無いかとは思うけれど、夜に向けて作り出していた。夕方風呂に入っている間に二次発酵をして仕上げて、夕食の準備を始めたときにドーナツを揚げた。遠くで雷の音が轟く。地響きが伝わって来る。そんな中で作り上げている。夕食の時間が遅くなったので、ドーナツは少しだけ食べることにした。旨い。明日もケーキ屋に行く予定だけれど、ケーキの試食は止めておこう。このドーナツが明日のおやつだな。

防災備蓄としてローリングストックして置いてあるレトルトカレーが無性に食べたいとここ数日感じていた。なぜなのだろう?こんなにカレーばかり食べたくなるって、よくわからないが、食べても別にいいじゃないか。で、昨夜そのひとつに手を伸ばしてみた。ん?賞味期限が過ぎていることを発見。大幅に過ぎている訳ではないけれど、確実に過ぎていた。自分の食べたい欲求はこのことを知らせていたのか?まぁ、早めに食べてしまおうと思って、よく見たらカレーではなく、ハヤシライスだった。温め無くても食べられるタイプで、初めて買ったレトルトのハヤシライスである。買った当時はカレーばかり備蓄があってもなぁ~と思ったのかもしれない。それまでのカレーを食べたいという熱が一気に冷め、ハヤシライスを温めて食べた。味はするけれど、ドロドロで具はあまり感じられない。次に買うときはやっぱりカレーだな。

ローリングストックと言っても、普段レトルトの食品を全く食べないので、確認も忘れていたよ。何だかわからない食欲に押されて、確認出来て、ちょうどいい機会だった。食べてみないとそれが美味しいものなのか、わからないしな。改めて次はハヤシライスは無しだなと決めたので、買い物に行ったついでにスーパーの防災備蓄の棚にあるカレーのレトルトを見ていた。以前も買ったことのある物が置いてあった。温めなくても食べられる物はあまり種類が無い。ちょっと違う物も見て見ようかと思って、他のレトルトも見て見た。たぶん美味しいだろうと思われるカレーだ。フェアトレードのカレースパイスを使ったカレーである。どうせなら備蓄品も美味しいものがいいよな。でも、温めるのに5分以上かかる。しかもとってもスパイシーで、具材が本場っぽい内容だ。うーん、悩む。避難している場所で本格カレーを食べるのか。まぁいいけれど・・・。実際、きっと辛くてもその場で水はたくさん飲めないよな。温めるのに長く時間がかかる物はどうなのだろう。値段も予想通り高かった。悩んで一旦保留。こういうのはどうせなら、一度食べてみてから備蓄品に入れないとな。

明日もどうやら雨が降るらしい。今日を乗り越えての、明日だ。予報ではケーキ屋にいる時間帯が強い雨になるらしい。行き帰りの時間帯は天候が落ち着いているといいな。でもそれだと、お客さんたちが大変か。予報が当たっても、外れても、仕方のないことなのだ。自分は出来ることをするしかない。これから先、また台風も来ると言っているけれど、進路の予測が困難なようで、どう進むか日々変わってしまうそうな。変化し続けるらしいね。

天気予報でさえ、いろんなことが複雑に絡み合って、どう結果が出るのか、どんなに予想してもその通りには行かないものだということがわかる。それでも予想して、その先の対策を考えることが必要なのだな。その都度、予想の数だけ選択肢があるということを知っては、また新しく選ぶことになる。選択肢がたくさんあるということは、のらりくらり生きている自分には希望みたいなものがあるような気になるよ。この雨雲の切れ間に生きている自分なんかには、どれだけコンピューターが頑張って予測したとしても「結果が絶対です」なんてことは当てはまってない訳だからネ。誤差も必ずあるのだ。その小さな誤差がたくさん重なり、またそこに出来る隙間も必ずあるだろう。

ではそろそろ寝よう。雷も雨もまだ続く。では今日はこのへんで。

 

 

 

いっせーのせっ、でやめてみようよという理想

台風が過ぎて行ったのにも関わらず、その後は急に雷が鳴ったり、晴れ間が出たり、大粒の雨が降ったりしていた。それでも、自分の住んでいるところはほとんど被害も無いし、結果的に雨風も強くなかった。最近の夕立のような雨が降るときも、ちょうどすぐそばの周りの街は雷や雨が強いというのに、ぽっかりと雲の切れ間の位置にあって降らないことも多い。偶然ではあるけれど、今年はいろいろと雨雲が避ける土地になった。

どこかの場所では何かが起こり、それ以外の場所では起こらないようなことは、地球の中で当たり前なのだろう。もちろん、大昔のドロドロの大地のままならば、その区別はなかったかもしれないが。少しずつ変化して今の形になり、いつかまた昔のような氷河期等が繰り返し起こるのだろう。そのいつかはいつ来るかわからない。自分は生かされている間だけ、人間という生き物の中で自然に抗って生き残って行く。まぁ、どうにもならないこともあるよな。

それでも抗える間は抗って、生き残るよう助け合うものではないのか。今起こっている世の中の戦争を見ていると「他にやることはあるだろう?」と思う。一体何が欲しくてそんなことをしているんだろう。結局のところ、人間の社会の中での価値観で生きるからこそ、起きるものだろうと思う。わぁ、言葉に書いてみるととても薄っぺらい、言い尽くされた言葉に見えるもんだな。まぁそれは置いといて。

人間の社会で作り上げた常識みたいなものが良くも悪くも作用している。他人が持っている何らかの価値を欲しがっているんだよな。戦争を起こしている人たちは、最早その中で生きていること自体がつまらなくなってしまい、何となく戦争をやっている人もいるのかもしれない。バカをやることにしか、生きる意味を見出せないとかなのかもなぁ。自暴自棄に見える。だってさ、本当にバカなことをしているんだよ。

人間一人を取り出してみたとして、それだって立派な資源である。それを減らしてしまうのが戦争。いろんな可能性を持っていたはずの存在を失い続けることになる。敵国とか、仲の悪い他国の人間というだけで、失われてもいい人間であると思えてしまうのだろう。主義主張が違うことは自分の目的を達するときに目障りなのだろうか。国という実際にはよくわからない目に見えない物に向かって戦わされている気がしてしまうよ。個人のレベルであれば、喧嘩はしても戦わなくて済むことが多いはずなのにな。

日本も非核三原則が揺らいでいるようだ。なぜ?わざわざ火種を生むような国に変えようというのだろう。自分の国が唯一の被爆国で、小さな国で、核を持たないで平和を望むということを示して、どれだけ今まで戦争に加担せずに済んだだろう。軍事力など今から備えても無駄だ。戦争に使う兵器を作る資源を豊富に持っていない日本は、前回の大戦と同じようにすでに負けていると思うのだ。エネルギー不足だよ。食料自給率も低い。戦争自体を継続する力が無いから、継続しない戦争をやるために核を持つつもりなのか?一瞬で終わるために?その先はお互いの国同士が終わるために?となるよ。

ぼけーっと一日中ゴロゴロしていた自分である。こんなに今日戦争のことや核のことについて気にしていたのか。書いて驚いてしまうよ。これは、ほんのちょっとニュースを見ると、戦争がひたひたと近づいているような感じがしてしまうからだと思う。頭の良い人たちでも、過去に戦争を止めようとしても上手く行かなかったし、凡人の下に位置するような自分なんかが何か考えても埒は明かないかもしれない。だとしても、気になることは口にして言葉にしておくのだ。

戦争は「やらないこと」というのが大事だと思う。どこかの国で、その大統領たった一人が核のボタンを押すことは出来ても、その他の全員が戦争をやらないことを選ぶことは出来る。たった一人は止められないのかもしれないが、自分という一人一人は止めることが出来るはず。そんなふうに思う。

では今日はこのへんで。