例えば、チャーハンが食べたくなる。とか。

小さな無視を繰り返している。自分に関係の無いこと、と捉えた瞬間に、まるでそこに何も無いかのように過ぎ去る。こういうことの繰り返しで成り立っている。意識してやっているのは相手に対してきっとちょっぴり意地悪かもしれない。相手に気が付かれたにもかかわらず、「無視しますね」という態度を取ることもある。そういうときには相手は傷つくこともある。それでも敢えて、何もしないという選択をわざわざ取るということも大いにある。その選択は相手が傷つくのを避けることになることもある。えー、何だっけ?とぼけるような。

ここでは、ブログの数々が毎日広がっている世界。目に映る文字は人を表しているのに、誰もその文字を全て拾うことはない。まあ無理だ。だから大半のブログに対して無視していることになる。実際の道では、お互いがすれ違うときには意識するけれど、ここでは違う。知らないうちに無視されている。その反対に、文字の羅列を意識して避ける、なんてことは最初から読まないと決めているときだけで、読まないと決めて画面をスクロールしていたって、たまにタイトルだけ知らないうちに眺めていることだってある。それでも自分としては何らかの無視を今も続けている。読まずに無視することを繰り返し行って、それでも引っかかったときにはその文字を追う行為をする。この取捨選択は出来るだけほとんどのことを無視する行為が続けられているからこそ、起きている。選択だ。無視し続けている中で、突然ココロは一体何に引っかかるのだろう。

文字は記号でしかない。形だ。しかも画面上に浮かぶ文字は筆跡などないから、細かい個性は削ぎ落されて、限りがあるはずだ。それでも何かの違いを察知している。不思議だ。「文字を読む」ではなく「文字を見る」ことを仕事にしていたときがあるけれど、そのときは文字の形だけを意識して見ていた。大量の文章を見ていただけである。意識下で見ているというよりは、無意識に文字を察知して感じ取る要素が多かったから、きっと読んでいないと思っていても読んでいたり、見ていないつもりでも目に映ったものを見分けていたんだと思う。いくつもの無視された文字も内容も、きっと勝手に自分の中に取り入れられているのだ。そして、忘れて行く。表面上は、である。

今の自分は文字をどう扱っているのだろう。読んでいない、見ていないつもりでいても、目に映った時点できっと影響を受けているのだ。人の持っている能力って恐ろしい。情報が過多と言われる世界になって、そのせいで、より疲れる要素が増えたんだろうなと思う。きっと頭の中は動きっ放しだ。最近は動画を見てしまってる上に、テレビで映画やドラマも観ている。

昨日なんてカンヌ映画祭の出品作を観ていて、寝る前に訳が分からない感情が渦巻いてしまった。未だにそれがどういうものだったか言葉にはならないが、体のどこかの部分にはっきりと刻まれて、記憶の深いところにも留まって、いつか急にまとまった内容となり言葉になって私の口からこぼれ出して来るのか、どうなのか。それが影響だよと自分では知らずに忘れた頃に行動に出てしまうものかもしれない。

毎日見たもの聞いたもの、感じてしまったものに関わらず、いろんな影響を知らず知らずに受けていて、後で飛び出した言葉や行動に繋がっていて、自分自身が驚いてしまうことになって行く。生きている限り、目や耳を塞ぐことは出来ない。それでも、小さな取捨選択をたくさん重ねて、複合体として総合的に判断した答えが出てくるはずだ。人は単体じゃなくて複合体だなぁ。小さな影響がそれぞれの形を作って変化して個性を作り上げている。けして、けして、真似できないたった一つの複合体なのだ~。

今日は一体何を書こうとしたのか。わからない。まぁ、いつもか。ブログを眺めていて、読んでいないのに読んでいるかのように頭が感じたり、訳もなく突然読みたくなったりするその不思議さが気になったのかなぁ。ここに来て、文字を眺めている人がいること、それ自体も含めて不思議な行為だといつも思っている。きっと少なからず、自分もそのことによって毎日影響を受けている。そういうあなたも、だ。否応なしに与えたり与えられる影響は、誰でも必ずあって、人生は、まあそんなもんだ。特別なことじゃない。無視している、無視していないも実は同じことだよなぁと最近思う。どっちも同じことなんだよなぁ。

だから、たくさん影響を受けて行けば一つのことは小さく、細かく、混ざりあったり、まとまったりして変容していくのだろう。おお、私の好きなチャーハンみたいだ。細かい材料はけして無くなっているわけではない。目立つ大きな具ばかり気を取られてしまうけれど、口の中に入ったときはいろんな細かい具材との複合体なのだ。日々のことも、人生もきっとそんな感じだ。だから今日もこのままで、今の気分で生きよう。自分が辿り着きたい場所へ知らないうちに勝手に進んで行くものだから。

では今日はこのへんで。

ねぇ、あなたはここに来たい?

朝からクッキーを焼いた。この間出かける前に仕込んでおいたので、生地を伸ばして型抜きをして焼くだけ。いつもと違い、型抜きをサボらずに焼いてみたのだ。しかも暫く使わなかったレシピだから、味を覚えていない。型抜きは大丈夫だったが、生地を先に伸ばして一度冷凍室で休ませてから型を抜く、という手順を間違えてしまった。が、あまり違いもないだろうと思ってそのまま焼いた。出来上がりはビスケットのような感じだった。けれど、時間が少し経つとクッキーらしい食感になって来た。それほどまずい、というわけでもないけれど、思っていた食感と違っていた。きっと想像していたのは他のレシピのクッキーだ。畑を作っている人から採れたてのグリンピースをもらったので、そのお返しをクッキーでしようと思っていたが、これではだめだ。やっぱり違うレシピにしよう。

今回焼いたクッキーはすべて自分の食べるためだけのものとなる。2回目に焼いたクッキーは、本を読んでいて時間と焼き加減を見るのを忘れてしまい、「焦がす」という結末を迎えている。クッキーは焼き上げのタイミングが大事だ。それでもまずくはない。まずくはないが、失敗をしている。

こんなとき、家族がいたらな~とか、学生でクラスメイトがいたらな~とか思う。家族がいたら「食べていいのぅ?」と出来たそばから勝手に食べていることが多いし、失敗しても基本お腹に入るものなら何でも食べてくれるから、作って失敗しても無駄にならない。学生のときのクラスメイトは作ったクッキーを友人に持って行くと、そのそばに「くれーくれー」と言いながら鳩のようにみんな群がってあっという間に無くなったものだ。味はどうでも良かったのか、単にいつもお腹が空いている年頃だからか。出したものは食べる、みたいなことが行われて、失敗作も消費の対象になっていたから、こちらは何度でも試すことが出来たものだ。最近はひとりだから、そうもいかない。必要な分だけ焼くことが出来るようなアイスボックスクッキーならいいが、生地を冷蔵から戻す割合を忘れてひとつの塊りで仕込んでしまった今回はその段階から失敗をしていた。すべて焼く羽目になってしまったのだ。ううぅ、しかも焦げが・・・である。

最初の段階で失敗していたんだと気が付く。そもそもこのレシピが思っていたものかどうかをちゃんと確認していない。それなのにレシピを見ながら作り始めてしまった。加えて焼き上げの仕方も気を抜いていた。失敗はやり始めから決まっていたことなのかもしれない。料理は適当で何とかなるが、お菓子は材料をちゃんとそろえるところですでに出来上がりが決まっているようなものだ。適当ではなく、ちゃんとやらないとなぁ。思い描いていたレシピはクルミが入っているにも関わらず、クルミを用意していないってどういうことだ?初めから失敗レシピを選択しているなぁ。少々適当が過ぎた。入れてもいないものが出来上がったときに入っているクッキーなど作れるはずがない。何をやっているんだか。

何をやっているんだ、ということで思い出したが、今日は地域食堂開設2回目ということで昼ご飯代わりに食べに行った。作成担当じゃない月だったので、他の人たちがどんなふうにやっているか、どんな人が入っているか、雰囲気はどうだろう?とかを見に行く。食べるだけ、ではあるのだが、顔見知りがいないところに入るというのは結構勇気がいるもんだよなぁ・・・と思いながら入口を覗く。子ども連れのファミリーがいる。その他は関係者かもなぁ。

席は割と一杯になっていた。相席になりそうだ。それはまあ平気。だけれど、関係者じゃない人が急にフラッと入れるもんかねぇ。声かけてもらっても、ドキドキして通り過ぎちゃいそうだ。ひとりで地域のこういう場所に行き慣れている人じゃないと入りにくいだろうなぁと思った。じゃあそんな場所に入って来る人ってどんな人だろう。周りを見ていると興味を持たずにはいられない感じだ。たぶん、私のことを知らない人は私を見ている。見られるのは平気だが、これが関係者じゃない人なら気になる目線ではないだろうかとも思った。

メニューがカレーで定番である。値段が安いか高いかという判断もされるだろう。もちろん、美味しさというのも大事なポイントだ。そういう意味では先月より美味しいカレーであった。前回担当には悪いが今回のデザート付きカレーの方に軍配が上がる。デザートはプリンにホイップをして飾りつけていた。それだけでも見た目がいい。

どこかのおじいさまが一人入って来て、私と大テーブルの端と端で相席になった。カレーを食べ終わるとプリンを夢中で食べていたせいで、顎と鼻の下にホイップが付いている。「あの、顔にホイップがついてます」と声をかけた。「ああ、ありがとう。ははは。美味しくて夢中になっちゃって。」と言葉が返って来た。たったそれだけのことだが、ホイップ効果だと思った。一言だが話すきっかけが出来た。実は周りの同じテーブルに座っている人たちは何の会話もしない。身内同士で少し話すだけである。黙食?本来の目的としては、誰でもここに来て話をしたりしながら一緒にご飯を食べると楽しいよね・・・というものがある。なかなか急にここで話が出来るものではないよなぁ。目的達成は出来るんかいな~。

カレーを食べた後、全く知らないおじいさまと言葉を交わして、知っているスタッフと話をした後、時間があるなら子どもたちが遊ぶ2階を手伝ってと頼まれた。担当じゃないけれどなぁ。自分は今日はここで何をやっているんだか。どうせ見てみようと思っていたので行ってみた。建物が新しいのに階下に上の音がひどく響くらしく「静かに遊べ」と言われている。折り紙がテーブルに用意されていて、本や作られた折り紙作品が箱に入っていた。

男の子が折り紙で12面体を作っているので横に座る。友達から作り方を教えてもらったそうだ。私は「じゃあこれが出来上がったのを見たら自分はすぐ帰るね~。」と他のスタッフに言っていたが、結局長居している間に、同じテーブルに女の子とそのお母さん、男の子の兄、お父さんも来た。折り紙を介して、他愛無い会話をしながら過ごす。男の子が作っていた12面体作成は「ダメだ、忘れた。」と途中挫折の危険があったが、角をこうしたら?とか、思いつく予想を伝え、他の人が探して来た折り方指南の動画を見ながら作り終え、なんとか持ち堪えた。良かった。まずまずである。

折り紙を介して、来ていた親子共々会話をしながらのんびり過ごした。自分自身が土曜の午後、誰かとしゃべりながら温かいカレーを食べ、折り紙を見ているだけだが他愛ない会話をして、ぬくぬくした空間にいた気がする。私も地域のただのひとり暮らしの人間である。対象者はきっと自分か。スタッフとして関わるよりも、自分目線で考えて居心地のいい場所になって行くようにしてみよう。外側からの立場でお膳立てばかりに終始していてもきっとダメだな。一員として、自分も楽しいよ、と思えなくては。

ふと、スタッフもどき、みたいな自分はあの2階でどういうふうに見られていたのだろうかと思う。馴れ馴れしい大人がいる、と男の子にも思われただろう。そういうのは全然イイ。「楽しかった。来月もまた来ますね~。」と女の子のお母さんに言われた。ただの地域の人、ボランティアスタッフの人、どういう人として見られたのだろう。なんとなくスタッフ?として思われていたのだろうか。人と人との間に垣根のない町作り、をしているのは果たして誰だっけ?自分たち自身だよなぁ。

「この間も食べに来たんだって?えらいな~。」と今日のプリン作成担当のスタッフに言われた。それじゃダメだって。自分たちがここに来たくならなきゃ意味がないよ。ってなことで、まずは来月もカレーを食べ、ぬくぬく空間を楽しみに行ってみようと思う。美味しいカレーでありますように!

では今日はこのへんで。

しょんぼりじゃなく、げっそり。

世の中が週末でウキウキしている日のはずなのに、なぜか人に八つ当たりしているような感じで過ごしている。朝からボランティアの定例会に出ていたからか?いつもと同じではあるけれど、出席した人が違うからなのか、いつもと雰囲気が異なる。忙しそうな「早く終われよ」感がみんなから出ていたからかもしれない。人のを感じてしまうから、これは自分のストレスとなる。ううう。なら、早く終わってしまえ。

終了した後、いつもならお昼も一緒に食べることもあるけれど、今日はバラバラと先に帰る人もいて、何となく尻切れトンボで終わった気にならないまま、部屋を後にした。まあ、こんな日もあるさ。しかも、自分だってこの後お腹が空いたまま、実家へ行って親にお金を渡しに行く用がある。電話をして家に親がいることを確認したその足で銀行に向かうことにした。

今日は当たり前だが、金融機関が開いているのが平日で最後であり、給料日の人もいるせいか、どこもATMの前は行列が出来ていた。だが、たまたま引き出しのみの列が一人も並んでいなかったのですぐにお金も下して実家へ向かうことが出来た。何にもなくスムーズである。やった!

線路沿いの八百屋さんのある道を過ぎると花屋さん、小さなカフェ、昔からある洋品店がある。花屋さんでは夏に向けて野菜の苗がいくつも並んでいる。この間から買うか、それとも買わずに再生栽培をやるか、という選択をせずにずるずる今まで来ている。トマトやピーマン、オクラくらいは買った方が良いかもな~。でも未だに思案中。そのうち梅雨が来て、間に合わなくなってしまうかもしれない。でも機会があったらにしよう。今日は書類やファイルがあって荷物が重いし。

小さなカフェの前。すでに看板は出ている。今食べる時間はない。お腹は空いている。お茶を飲みたい気もする。でもとりあえず、入りたい気持ちを堪える。親のところへ行った後にカフェに寄ろうか、とも考えたが、冷蔵庫にはまだ食材があるから真っすぐ帰った方がいいかもしれないと思い直す。それに連休中に散財したのと、外で食べる量を考えないと昨日のような「重量感」がお腹を満たすことになりそうで、それは避けたいと思ったからだ。う~ん、サンドイッチ位ならいいかもな。帰り道で考えよう・・・とそのまま実家に向かう。いつも結局は気分とか行き当たりばったりだ。計画を守る、というのはこの瞬間生きているのがつまらなくないか?とかなりの確率で思ってしまって、どうせなら自分への約束を守るのは明日にしようよ~♪と思ってしまう。これも仕方ない。なるようになるさ。

持っていた水筒の水を飲みながら歩く。水と一緒に空気をなぜか丸飲みしてしまった。同じ道を歩いているすれ違う人が気が付いているかどうかはわからないけれど、ちょっと苦しい、っていうのをなぜか隠そうとする。今日も無駄な努力をしているぞ。誰にも迷惑かけていないし、自分が空気飲んじゃったって、周りの人にとってどうでもいいことだ。なんでああいうとき、隠そうとするのかなぁ。その後も飲みながら歩いて、いちいち空気を飲んではゲップしながら進んだ。単純に歩きながら飲めない、ってだけなのだ。わかっている。いつも止まって飲むのに、なぜ歩いて飲んでしまったのだろう?今日に限って自分の行動が謎である。それほど急いでもいないのに。

実家へ行く途中、横を先に通り過ぎた自転車の男性がいた。途中にある小学校の畑の中に入って突っ立っている。小学生に畑のおじさんって言われる人か。畑を囲うフェンス内に入っている人って、こちらから見ているだけだと何をしようとしているか全くわからない。ただの泥棒ってこともあるよなぁ。道を歩いている人もチラチラ見ている。

けれど、畑に何もまだ生えてもいないから泥棒ということはないはずである。大丈夫だろう。見分けつく人っているのかな。大丈夫じゃないとき、さてどうすればいいんかな・・・。何も盗られるものが無い畑に侵入していたことを目撃したとしたら、「チャリで来ていました。」と小学校か警察に伝えるくらいでいいだろう、とその場を後にする。チャリナンバーとか無いし。関係無さ過ぎのところに首を突っ込んでいないで、先を急いだ。急ぐ必要もほとんどないけれど。

まだ回収が来ていないゴミ捨て場の横を通る。そう言えば、実家の片付けが進んでいない。椅子を解体して、途中になりそのままである。面倒くさいことを思い出してしまった。今日持って帰るかぁ。自宅でやる方が楽だしな・・・。その後実家にすぐ着く。お金を渡す、で帰れるはずだったが、病院へ行った話をされて暫くつかまる。お腹が空いてんだよ。こっちは。

しかも、私が検査した病院の担当医が親の担当医になったせいで、こちらの情報が筒抜けになりそうな勢いである。緊急連絡先を聞かれた際にもしかしてここで受診している人?と言われ、「ああ、○○さんね~。」とフルネームで言われたそうだ。医療従事者たる者、お願いだから個人情報を世間話で漏らさないで欲しい。いくら家族であっても親しい仲でもだ。担当医も受付の人も道とか違う場所で会ったときにもお互い気が付いて挨拶出来てしまうくらいではある。やばいぞ~。親しいとはリスクでもあるなぁ。こちらも親の情報は気軽に聞かないように気を付けなくては。自分から漏らしていることも無きにしも非ずだ。

しかもその後も玄関先でいちいち大きな声で名前を何度も出すので、その度に名前を呼ばないでくれ、と親に言うのも虚しく個人情報が次々に漏れる。きっと近所中にやり取り含めて聞き耳を立てられているなぁ。高齢になって来ると、周りに話を聞かれるのが嫌だという割には長い時間人に聞こえるように自分から話をしてしまうものなのだろう。あ~、だから他の家族はまず「口を閉ざす」「自分のことはしゃべらない」「付き合わない」とかになって行くんだろうなぁ。みんな賢いよ。自分はもう失敗している。話を戸口で聞いたのが大失敗である。それに今日は自分もただ聞き流せばいいものを、一つ一つに答えてしまった。ストレスがあると大体こうなる。対応がすべて理屈っぽくなるんだよ。ああ。

ひとしきり話を聞いた後、帰ろうとしたら「卵食べない?」と言われる。食材を買っても足りなくなるのが心配になってまた続けて買ってしまったらしい。自分では消化するつもりのない物を買い続けてしまう行為は昔から不思議だったが、今となっては高齢者の行動は繰り返されることが普通なのだから許せと、逆手に取られているような感じだ。卵を2パックも持たされた。ついでにゆで卵も追加で。22個の卵である。荷物が増えた。リュックに入らない。手持ちだ。これでさっきゴミ捨て場で思い出した椅子のゴミを持って帰ろうと思っていた案は無しになる。卵を大量に手に持っておきながらカフェで卵サンドを食べるのは、やめておこう。真っすぐ帰るコース決定である。

自宅に帰ると、早速卵を使う料理をした。ひとり暮らしに何せ22個だ。賞味期限も近い。お菓子作りや調理で減るのは早いはずだ。早速作ろう。それに朝冷蔵庫内を見て、卵を買って来ようと思っていたんだから。神様がきっと卵が必要ならとプレゼントしてくれたんだ、と思うことにした。

調理途中で電話が鳴る。また親からだ。ご想像の通り、さっきと同じ話が電話口から始まる。卵を割ってから口にするまでにかなりの時間を要する。いつになったら卵の消費がスタートするのか。せっかく消費開始!で早速作り始めたというのに。「だって、帰り姿見ていたら寂しそうだったから」と言われた。寂しそうじゃなくて、疲れたんだってば。理屈っぽいのが後を引いてしまった。だから今日の下らない話が長くなる。なんてこった。

では今日はこのへんで。

現在水分飽和状態です

何だか眠い。この間の検査のせいか、疲れ方が違う。検査でお腹の中を空っぽにしたことはこんなに体が軽いものなのかと思ったが、今はすでに普通に食べていて、おなかはいつの間にか前のようになり重くなっている。お腹が出ているわけではないが腹筋を使わずにいられない。今日食べた中華ランチはいつものように食べるのに時間がかかり、私より後に入った他の客はすでにお店を出ていた。最後まで食べ終わったので、早々に帰ろうと立ち上がったら途端にお腹の重さに驚きつつも、それよりも歩くのが億劫となる。

けれど、家の近くにはバス停もないから、バスに乗るわけにもいかない。しかもタクシーに乗るほどのこともない距離だ。だから自宅までの山道をとにかく上って行く。ひとまず立ち上がったときのお腹の重さで眠気は飛んで行ったが、この間の検査で一食抜いたことなんかが影響して、どうやら胃袋の消化能力が混乱しているらしい。元々ゆっくり食べているし、量としては同じだ。たくさん食べているつもりはないのに、前にも増して消化能力のスピードが落ちていて、いつまでたってもお腹が軽くならない。たくさん食べてしまったような重量感だ。く、苦しい。こうやって書いている間もお腹が一向に減らない。きっと今夜も軽めの食事でいいな(気分的に3食は食べたいのだ)。

体の慣れとは不思議なものである。いつもたくさん食べていたらそれが普通の量になる。たぶんほんの少し減らした、という事実を確認すると「いつもより減っている!!」ということを体が知り、その反応をする。いつもより早くお腹が空いたりするものだ。今回、「消化のいい物」を一日食べ続けて、慣れてきたころ挙句の果てに一食抜いて、お腹が空きそうなものの、その後大量の水分をこれでもかこれでもかと摂取した。飲んでいて半日も過ぎるともう何もいらないな、と思うくらい水分でお腹が一杯になってしまった。水分でお腹がいっぱいになるなんて、今まで体験したことはない。以前なら水分はいつまで経っても、どれだけ取っても水分は水分でしかなく、固形の食物を欲していたというのに。徐々に慣らした体というのは恐ろしく順応するのだ。

昨日はいつもより遅めの時間帯で仲間とゆっくり話をしながら食べ、そのまま長い時間座っていたこともあって、それほど感じなかったが、今日はひとりで食べたせいもあって、食べるスピードも速く立ち上がるタイミングもいつもより早めだったかもしれない。けれど、満腹度が高過ぎる。食べてしまったからどうしようもないのだが。しかもここに来て水分はどうも受け付けたくないらしい。

それでも、別腹とはよく言ったものだ。甘い物は目に入ると食べたくなるのだ。お腹一杯なのに食べられそうな気になる。サラダやスープ、主食の中華丼を食べ終わる頃にはお腹一杯だよという警報が出ていた気がするのに、デザートで付いていた杏仁豆腐は何も考えず食べて来てしまった。体内に入るのは同じこととしても、消化することを考えたら、消化そのものの活動は必要ないと見た目ではそう思える。もうすでに液体になっていたり、細かくつぶつぶしていたり、柔らかく、他の食物繊維の多い食べ物に比べて消化は良いのではないだろうか。体の負担が少なそうに見える。消化の良い食事、というのを一日やったことで、「取り入れても良い」というような刷り込みが既に出来ているのかもしれないな。他の甘い物もするすると入って来てしまいそうだ。

それにしても、別腹でもなんでもなく、普段ならそれこそ底無しで入って来る水分が本当に入って来ない。あれだけ検査で何の抵抗も無く大量の水分を飲み続けられたにもかかわらず、一番体に変化があったのは、今は水分なのかもしれない。昨日も今日も、それほど飲んでいない。普段飲む量の半分位だ。検査で飲んだ水分量で暫くもうMAXってこと?時間をかけてちびちび飲んでいたから、「飲む行為」そのものには飽きが来ているのは何となく感じる。隙間時間に飲む、という休憩スタイルが今は存在していないような気がする。

じゃあそろそろ、休憩するか。と思ったときに、まだ入んないんだよな~。いつもならこんなタイミングで絶対何かを飲みに行くのだが。いや、無いな~。あれだけ食べたり飲んだりを抑制して過ごした一日がこんな感じの感覚を与えるとは思いもしなかった。合唱のユニフォームが入らないかも、と言っていた先週の始めとは異なる展開になった。細くなってすんなり入るユニフォームに喜びもしなかった。それどころじゃなかったよなぁ。これだから明日はわからない。今日はね、こんな感じだ。じゃあ明日は何があるのだろう?思っても見なかったことが起きるんだろう。どうせ面白可笑しい出来事ばっかりだ!という人生が続く。ふふふ。

では今日はこのへんで。

ホッとするとホッとする

歌の仲間と数名でランチに行く。午前中はボランティアの定例会。そのボランティアの団体で開催する子供向けのコンサート準備を会議の後も居残ってやっていたが、ランチの約束に間に合う様に時間ピッタリに会場を飛び出して行く。元々は歩きで待ち合わせの店に行く予定だったが、車で行く仲間にメールを入れた途端、携帯が鳴ったので出た。近くで車を止めて待っているとのことだった。ちょうどバスが来ていてバス停の少し手前に止まっている車が邪魔だったのか、クラクションを鳴らしている。あ、あれだ。鳴らされた車の横をバスが通り過ぎる。クラクションを鳴らされて目立ったので仲間の車を発見してしまった。けれど鳴らされなかったらきっと私は気が付かなかったかもしれない。中から手を大きく振っていても近づかないと私にはわからなかったから他の人には申し訳ないが好都合だった。

車に乗り込み、混んでいる道を進む。ちょうどお昼時でどこの店も道も混んでいるのだろう。予定していた店も駐車場は一杯で2台ほど待っていた。他に行ってもきっと混んでいるだろうから入口近くの道路で待つことになった。すぐ数メートル後ろはまたバス停である。寄せた車の横を大きなトラックが何台も通り過ぎ、少し落ち着かない。前の車が1台店に入るのを諦めたのか出て行ったタイミングで、また1台出て行った。ほんの少しの間に駐車場が空いて、思ったよりも早く入れた。他の駐車場は使われていないのか確認しに行っていた仲間がずっと外に立っていて、他の車のドライバーと話してスムーズに入る場所を確認してくれたことも大きい。ただ座ってトラックやバスが後ろから来ないかドキドキしている自分とは大違いだ。仲間はありがたい。

まぁ、こんな役立たずな感じの私でも、いいらしい。ランチの後にバタバタと帰った一人から帰宅後にメールをもらった。「今日ハンバーグやメロンパフェを食べながら話をしている姿を見て本当にホッとした。」自分が食べている姿を結構見られていたのは気のせいではなかった。昨日一日中検査の結果が出るまでハラハラさせられているにもかかわらず、ずっとパワーを送るよと私を応援し続けてくれた仲間だ。検査結果によってはランチには参加出来ないかもしれないと伝えていたから、今日一緒に何事もなくランチを食べているというのは、仲間にとって十二分に幸せだったようだ。自分が心配している誰かがいて、その後ただただ幸せそうに生きていることを見られる、というのは幸せなことなのだ。とても元気な姿、というのでもなくて、ごく普通の普段の当たり前の姿でいいのだ。つくろわない、普段着のありのままのいつもの姿で、ああいつもいるヤツね、程度だったとしても、そこにいつものように在ることの幸せ。

そんな幸せを感じてもらえる仲間がいたことを幸せに思った。私はいつだって、ただいるだけ、だが。それでもいないと人って何だか物足りなくって寂しくなるんだよな。私もだ。昨日たくさんパワーをもらったが、今日これでパワーを返したことになるだろうか。生きているよ、って続けていることがお返しになるのだろう。だったら、返すのにはまだ先が長いぞ。生きないとな~。

では今日はこのへんで。

不幸の淵へ向かう人に対して横から何度もカニばさみをかけて倒すリレー

病気になることより、人工的に何かをすることが体を痛める気がする一日だった。検査なんてヤダなぁ。悪い結果が出るようだったら、きっと細かく検査の心情とか日記に書き出してしまうのだろうけれど、それは無いことになった。何事もなく、無事帰還~と友人にはメールを送った。近くに住んでいる家族に緊急連絡先を指定するために、結局言わないで済むはずだった検査予定を昨夜急遽伝えることになり、何だかな~と思う。ココロの準備もあったもんじゃない。知らせずにたまたま連絡が行くようなことが起きた場合、そちらがより後々面倒になりそうなので仕方なく伝えた。こういうとき、本当に誰も連絡する相手がいない場合はどうするのだろうか。あれを見ると悩む人もいるだろうなと思った。とりあえず私には家族がいたことで、緊急連絡先について病院に対してゴネたりせずに済んだ。それは良かった。自分だけが一族の最後の生き残りなんてことになったら、きっと大変なんだろうなぁ。

とにもかくにも、ひとまず検査で綺麗な体の内部を見ることが出来て、ほ~っとなる。普段見られないものだから、じっくり見てしまった。さらに、最近気にかかっていたことは今回の検査と先生との話とで大体解消してしまった。早く予定してさっさと済ましたから、今後の予定もいろいろ楽になりそうだ。やった!

それにしても、ここ数日の間の自分の死生観のようなものに驚く。あまりこの先のことを考えていないというか、心残りが少ないんだなと改めて思う。この先は心残りとか生にしがみついていたいような、そういう気持ちが増える年齢になるのかもしれないけれど、今現段階ではやりたいことはやれているみたいで、今の自分の重荷になっているのが年老いた自分の世話だということだった。この先、お金も体力も気力も今よりも減るだろう。幻滅したり、不安になったりはしないが、「先が短いのだな」と思った途端とても気楽になったのははっきり覚えている。少し、十分生きた気になっているのかもしれないな。

ところが、こんな感じで「長生きとかしなくてもまあいいか」とぶらぶら検査に向かったのに、私より年上の合唱仲間が今回の検査前後にたくさんの応援メールを送って来ていた。「ポジティヴな人からエネルギーを送るよ。だから大丈夫だ。」「うちの家族もこの間やっていた。数年付き合ったからリアルでその状況が今わかるぞ」「大変そうじゃないみたいだな」「ふらついたりするから気をつけて」とまあ、次々とメールが来た。検査にも生きることにも、やる気があるのは私ではなくいつも周りだ。

他の友人からはまだ始めてない時刻に「お疲れ。よく頑張った!」とも連絡が入った。頑張るのは先生だと思うぞ。しかも気が早いって。その後もずっとぐだぐだしていた。他の診察が長引いて、待ち時間が延びるので眠りそうになっていた。時間は過ぎ、今日検査があるからと止むを得ず伝えた人から健康パワーを感じるメールを頂いた。感謝の気持ちもある。でも、検査って応援するもんだっけなぁ。とはいえ、きっと生きるのも検査も、本人より周りの温度で生存の熱意が変わるのかもしれないなあ。メッセージをありがたく頂戴した。

応援、とは私の中ではお祭りのことである。私が相手側の立ち位置だったら、きっとワーワーやっていたことだろう。誰かが手術をするならきっとうるさく応援していただろうし、同じことをやっていたかもしれない。病気かもしれないから、という暗い要素に向けて、病気じゃないかもよ、気を落として病気になんかなるなという応援。暗闇に一人で落ち込みそうな瞬間を蹴散らす。落ち込む隙を与えない。結果として病はどこかへ遠のき、今に至っているのではないだろうか。今日の自分なんかはきっとそうだ。ずっと絶え間なく煽られて、気落ちする隙間を与えられず、知らないうちにあっという間に検査が終わったのだろう。すごいね、みんな。ありがとう。きっと、病気が見つかったら見つかったで、治る気になるまでか、はたまた治るまで煽られるんだろうな~。その気力がリレーして永遠と続くのか。面白いよな。そう思えるところに生きている自分は幸せ者だな。

では今日はこのへんで。

すべてオーダーメイドだよ

歌の本番が終了。今回は3番手だったから、結構楽だった。着替えの集合場所に時刻通りに入り、そのままリハ―サルの場所へ移動し、すぐに舞台袖に行く。仲間が待っている間ガチガチになっていたので、肩を撫でる。「本番に弱いから」とうつむいて固くなっていたが、その仲間の普段の練習の歌声を聞きながらいつも練習をしている自分である。この練習の歌声がなければ本番に強いこの私はないと思っている。どんなに本番が弱くてもかけがえのない大事な存在である。本番の結果が良いことに越したことはないが、いつだって通過地点である。一点、一刻の良い瞬間だけで人は生きているわけではない。連続した瞬間を生き続けているのだから。

他の団員の歌を最後まで聞き、ありがたい講評も頂いて打上げに近くのファミレスへ。遅くまで話をして過ごして、解散となる。先生はいくつも団体を抱えているが、団員の年齢がかなり上がっていて、私が所属している団が一番若い。だから自分が持つ最後の合唱団になるのは確実なのだと言う。それを聞いて、そうだよなぁと思う。当たり前のことだけれど、年上の団員たちはいつ解散するかわからないのだ。先生だって最近年齢を感じているから、新しくは団を作らない。なんだか自分のいる合唱団がすごいことになって来たぞ。先生はあと30年はやるぞ~!と意気込み、とりあえず30周年を近場の目標としてやるぞと活気付いていた。曲も楽譜も用意しているとのこと。NHKのコンクールの今年の課題曲をやろうとしている。「作曲がねぇ、リョクオウショクヤサイ」と言っている。どうなることやら。ひやひやだ。

ところで、どこまで生きるかわからないが、という日々を過ごしている。歌も自分には来年はないかもしれない。けれど、人生はそんなもので、来るか来ないかわからないことをあれこれ悩んだりしても仕方がないよなと今は思っている。人生の到達点とは結局生まれて死を迎えること、それだけだと思うのだ。それ以外は全部、途中での出来事。どんな寄り道をたくさんするか、である。だからいいことも悪いことも同じ価値なのだなぁと思う。何にもない穏やかな人生もあるとは思うけれど、些細なことで人は影響を受けて自分の喜怒哀楽を味わっているのだよなぁ。味わいたくない人がいたとしても、生れたからには死に向かうのは確実で、出会ったら別れるのも確実である。それについてなぜか人は足掻いたりもする。わかっていながら、足掻く。結構面白い要素だ。

私は何をどう足搔くのかなと思って、自分を見ている。今は明日の検査前の食事が炭水化物ばかりで怒っているところだ。検査って、理不尽だ。人生の中の楽しみな食事の回数が減ってしまうじゃないか!!と怒っている。検査で何かがわかったところで、死なないわけじゃないのだから、その一日が勿体ない!とかである。まあ、今は禅寺で修行中の僧になったみたいな気分で試している。良い出汁を取って、この少ない量をどう美味しく食べるか、だ。人生は工夫をすることを楽しむのだ。工夫を自分メイドに楽しむ。ようやくわかって来たぞ。自分にとっての人生ってなんなのか。しめしめ。

では今日はこのへんで。