休みの無い人にも、ココロ踊る休暇を。

どーん!どーん!とものすごい音が驚いた。外でぶらつきながら中華チキンにがっついていた時である。最初は何かわからなかった。爆音が響いていた。少し歩くとビルの隙間から大きな花火がこぼれ出ていた。一発だけ、ビルの上からすべて顔を出した花火が美しく広がった。「たまや~!」後ろで若い男性たちが大騒ぎしている。花火はこれからの休みをお祝いしているようだ。中華の店の店員が外に出て花火を見に来た。そうだ。平日の金曜日だが、夜からすでにゴールデンウイーク。私には関係が無いと思ったが、家族が未だ出勤の様子が無いので、暫く一緒に遊び続けることにした。

ということで短いけれど、今日はこのへんで。

電話は2度鳴る

青い空が見えている。夏日だ。あまり天気のことを話すと自分がどこで何をしているのかわかってしまうので、気を付けているけれど、自分の中で天気は最重要だから書いてしまう。やっぱりぽかぽか、がいい。暑過ぎると途端にノビてしまうけれど、日陰でウトウト出来るくらいがちょうどいい。こんな日はテレビでも見ながらおやつを頬張って過ごすのがいい。いい、いいと言っているのは、この後歌の練習に行かなきゃいけないと思っていて、実際はずっとはここにいられないからだ。いたかったらここにいればいいのに、と思う。けれど練習にも出たい。半分半分、両方の気持ちがあるときは、ひとまず動くことを優先出来るように自分に仕掛けて行く。今日もこの後動き出すぞと。

ところで、昨夜から気になることがあった。電話である。夜8時頃と今朝4時頃に電話が鳴ったのだ。昨夜はたまたま気が付かなかった携帯への公衆電話からの着信。出かけていた家族がスマホを落として、何かあったのでは?という想像をした。なのでとりあえず連絡をするためにメールを入れた。返信がある。けれど、疑心暗鬼になる。これは本当に私の家族から来ているメールなのかどうか。普段目にするキャラクターが入っていない。言葉も何か変だ。もしかして誰か違う人の手元にスマホがあるのか?とさらに疑い、合言葉ではないが二人しか知りえない質問を入れてみた。最初はスルーされたが、暫く後になって、次から次へとその答えに連想するような細かい描写が出て来た。おお~。これは本人だ。メールの中やネット情報で関わっていない、固有名詞も出来た。かなりの確率で本人である。安心したので何があったかをメールして事なきを得る。

家族が無事だったのでほっとするのだが、以前ボランティアの名刺を渡した人のことを思い出して、この時期だし大丈夫だろうか?と心配が過る。けれど、公衆電話からわざわざかけなくてもいいはずだ。スマホからかけるだろう。それに自分が誰だか分からない人が良ければ、私に電話をかける必要はない。私に向けて電話をかけるなら、自身をわかっている人に電話はかけるものだろうから番号無しで公衆電話はあり得ないな、と納得してその人ではないと判定。じゃあ誰だ、となる。

別のところに住んでいる他の家族や、または親が何らかの理由で別の場所から電話を入れて来た?要らん心配をしなくてはならない人がいることに気が付く。きっとそれはありがたいことだろうと思うが。別のところに住んでいる家族は連絡を入れたらすぐに返答が返って来た。これは違うっと。親か?と思って、すぐさま電話を2度ほど入れる。めずらしく留守電にならない。家にいる人と喧嘩をして、もし家を出て途中で電話をして来るなら・・・と勝手に筋書きを描いて想像したが、親が私の携帯番号を覚えているとは思えない。で、親ではないだろうと踏む。じゃあ、まあ、きっと自分には関係ない電話だということだ。きっと間違いか、詐欺か、そんなところだ。

たった一本の電話から始まって、暫く誰だろうと気になっていたが、一応カタがついた気になり、眠った。しかし、明け方目が覚めることとなる。カタがついていなかったのだ。今度は離れたところにある固定電話が鳴った。なぜかそのときパッと目が覚めて、鳴っている音を確認する。出ようと思って動いたが、手に取る前に切れてしまった。家にある電話は、誰がかけて来たのか確認出来ない仕様である。さあどうしようか。

ここからは目が覚めているけれど寝てしまいたい気持ちもあるので、ウツラウツラしながら、ちょっと怖いことを思い始める。最近の事件では明け方近くに押し入る強盗がいたじゃないか。確か、電話を何本か入れて不在かどうか確かめていたりしていたような気がする。電話をかけて来て反応が無いと空き巣のように侵入していたような。あれ?違ったか。強盗だと脅しが入るから、寝室に来て金目の場所を聞くんだっけ?どうだったけな~とだんだん頭の中で凶悪そうな事件を想像していく。まだ朝日も出ていない時間帯に考えることとしては、あまりよろしくない状況である。その気分を変えたくて、遠く耳を澄ますとカラスが鳴き始めている時間である。けれど、遠い。そんなことを思っていたら、急にガタガタッと外の音がする。家に侵入者だったらどうしようか。ぎゃっ。

音は一瞬だけだった。何のことはない。お金の無さそうな古いボロ家に寄りつく悪党などいる訳はないのだ。近所の早起きさんや小動物なんかがちょっと動き始めた時間だ。続けて侵入してくる音などもしないので、まだあと数時間は眠れるから寝よう寝よう。そうだ、もしかしたら昨夜電話を親に2度も入れてしまったから、着信を見て急に電話をかけて来たのかもしれない。きっとそうだ。・・・自分の安心へつながる方を信じたいのが人間である。音の根拠を確認せず、そのまま結局寝てしまった。

7時過ぎ。また電話が鳴る。この時間は絶対に親である。出てみるとやっぱり親だった。「電話した!?」と言う声が飛び込んで来る。もしや朝4時に電話したか聞くと、やはりそうだった。親は4時半にかけたと言ってたが4時だったと言うと、そんなに早かったっけと言われた。どっちみち大差ない。30分の時間の差を納得してもらおうと話している自分もおかしいが、そんなことより朝4時とか早い時間帯に電話をかけるなんて非常識にもほどがあるじゃないか、などと人に心配をさせておいて一方的に思っている自分である。電話で急用があったらそのままかけ続けるからと説明し、そんなに気にしなくていいんだとか言う時点ではいろいろ面倒くさくなって、適当なところで「ハイ、ハーイじゃあね」と電話を切った。

面倒なところは親子そっくりなのだ。気が付いたらすぐに連絡したい性質だ。「何かあったのかと思って心配になった」と言う言葉もそっくりだ。一本の電話を機に起こった今までの私の騒動は棚に上げて書いているが、私は親と同じようなもんであると自覚している。昨夜、外に出かけて人と会っていた家族はたまたま私のメールを見たそうだ。そう、たまたまだ。もしかしたら、見なかったかもしれないし、すぐに返信を出来なかったかもしれないのだ。あれで事が収まったのは、偶然とすぐさま異変に気がついて冷静に対応した家族の協力があったからだ。面倒くさい家族だと思われても仕方がない。それなのに嫌な顔せずに対応してくれる家族に感謝だ。実のところ、面倒がこれ以上増えないよう先手を打って対応されている。素晴らしい。エクセレント。

公衆電話からかけた人はまさか、このページにこんなに長く書かれる事象が起こっていたとは思わないだろうな~。私の日常は小さなきっかけでこんなになるんだよ。また無駄に長くなってしまった。電話はそのとき出るに限る。

では今日はこのへんで。

トキントキンの角が折られるか砕けるかもしくは何かにぴったりはまるか

ペーパーレスになることが増えて来る。これって全て電子化するのが当たり前の世の中になるのだろうなぁ。少しずつだけれど、着実に変化して行くのだろう。ポイントを付与する等、今考えられる「お得」のようなものを差し出されるから普及して行くよう自分もその仕組みに加担させられて行く。お得を手にするとラクになるのだが。だがぁ~である。

来年度から子ども持つ親への支援内容の情報も紙ベースではなくなり、母子手帳発行時にスマホにアプリを入れて受け取るようなサービスに変わるような話を聞いた。こうやって、ペーパーレスを進めて行くのだ。福祉系のところでも、今まで自治会の回覧に挟み込んでいたような広報のような物もペーパーレスになるので、配られなくなるよとも聞いた。自分から欲したり、必要に迫られたときだけ手にしたり、そのことに関係のある人だけが耳にする情報になって行く。それって大丈夫なのだろうか?ただでさえ、嗜好に合わせた世界になりつつある気がしているのに。知りたくない情報も溢れているとは言え、溢れたところから取捨選択をして行く作業も大事なんじゃなかろうか。自分にとっての選択もなく、目にする機会もなく、大事なことを知らされないまま、これからは過ごすことになるような気がしている。

例えば物を持たないような少数派になっている人はどこでその情報を手に入れることが出来るのだろうか。国民にして欲しいこと、というのがあったときに、全国民が平等に情報を得るためにスマホが必要ですよと言うのならば、提供してくれないとな~と思う。提供が無いならば、情報が手に届く仕組みがあったらいいのにと思うが、そのひとつの方法が紙ベースでのお知らせだったんじゃなかろうか。予算を削れるとか紙その物の消費を減らすとか理由はあるのだろうけれど、果たしてその予算はどこへ使われるのか、紙の消費を減らして実際何を使うことにしたのか。やはりいろんな事業案や会計案等は見ていた方がいいのだろうなぁと思った。国会もそう言えばやっている!注目した方がいいのだよなぁ。

今日はボランティアの定期的な会議に出て、ある企画の場面でタブーかもしれないことも言って来た。波風立てて来てしまったか。どう捉えられたかわからない。私の言い方も上手くないのでねぇ。けれど、波も風も立てないと動かないものだろう。思いがけないことを言われたと思っただろうか。だったらすごくいい。波風立ててるのではなく、立てられていないかもしれないから。無風・凪かもしれないのだ。正直なところ、波も風も遠くまで届くことは無理だろうと思っているから、だったら言っておいた方が良いなと最近は思う。波も風ももっと強い物に当たって砕けて小さくなって行くのだろうから、誰からも無くなったように見えるだろう。自分もそのうち忘れてしまうかもしれない。けれど、それでもいいのだ。今何か届かなくても、「言ったって駄目さ」「おかしいな」「ん?」「どういうことだろう」等々、いつか小さなかけらがココロに刺さってて、その言葉を忘れてしまっても、急にふと何かの感情を思い出して何かを考えるきっかけになるはずだ。あの場にいた人たちが家に帰って夜になってふと思い出して、他人のことだと思わず自分のことだと思えるといいな~。何かを思えば小さな何かが変わって行く。

何だかんだ言うだけ、の人も少なくなって来たなあと思う。この当たり障りの無さが蔓延した世の中って何だろうね。ちょっと気持ち悪く感じている。他人を許さない人が増えたから、言うことで何かを失敗したら生きて行けないんだろうか。まるで、生きていちゃいけないって言われているみたいだ。怖いなぁ。こちらの角をたくさん作って人に傷をつけるつもりもないが、ちょっとした角を取られて行く。しかも、目には見えない細かいざらざらした表面を持つ綺麗な何かに知らず知らず削り取られて、丸くすべすべになるんじゃなくて、そのままさらに深くエグラレル感じだ。どこまでやられるのだろう。痛い痛い。最後に小さな丸とか点になって行くのか。そこまで保てるのか?キツイね~。

幸い、波風も優しくキャッチする人たちが中にいた。いくつか思うところをバトンを渡し合うように、思ったことを話してくれる人が他にもいたことはありがたい。発言をとにかくメモしまくって書いている職員の姿を見た。きっと真摯に自分のこととして受け止めてくれた気がする。私には何か出来ることがあるとするなら、相手の呼びかけに対して、自分がどう思うかというのを今後も正直に答えて行くことだなと思う。ああ真面目な一日を過ごしてしまった。明日はボケボケしよう。

では今日はこのへんで。

取り扱っているのはダブって似ているだけでなく本人です

人間、30日もあれば変われるという話を耳にすることが多いが、どうだろう。ブログを続けてみようと思い始めてから、すでに60日を超えた。いつも何かを始めると、途中で止めることの方が難しくなっていると感じる。一日位休んだりすればいいものを、毎日繰り返し形を変えながら続けている。たぶん、続けるために何かを工夫する、ということ自体が面白くなっていることの方が断然多い。時間帯や書く場所を変えるとか、着替えてからとか、人の反応を見てから書く・見ないで書く等々、気が付いた小さなことを変えて試している。

ブログに関しては文章を書くだけなので、私はダラダラと工夫もなく続けているので大したことはない。だが、人によっては一文字も浮かばず書くことが進まないという人もいるようだ。そんなことはないだろう、と思って昔は信じられなかったことがあるが、学生の頃に作文用紙を前にして一時間ペンを持ったまま何も出来ない姿を何度も目にしたことで理解した。自分に出来ることは他の人にも簡単だと思ってしまって、誰にでも出来て当然とどこかで思い込んでいたふしがある。本当に人によって出来ることや続けられることは様々だ。たまたま、垂れ流しの文章ならばいつだって体力の続く限りは書けるというだけの自分である。

この「続ける」ということは「続けない」というのと同じだなあと今は思っている。自分にとっては表裏一体の事象だ。続けることが出来ることと続けるのを止めることが出来ること。どちらも出来ることなのだ。私は一旦何かをやり続けることは得意だ。というか止められない。だから、「やり続けない」という人を見るとうらやましいなと思っていたこともある。今は止めることを続けてみる、というようなことなら出来るかもしれない・・・というように、自分自身に出来る形や出来る考え方を無理にでもこしらえて、納得させる形を取ることで様々な行動を可能にしている。全く面倒くさい人である。始める、というのも割と得意だ。諦める、というのは苦手。どれだけプラスの要素を自分に言葉で感じさせるかが大事なポイントである。言い回しの違いで行動に対して無意識に拒否反応が出てしまい、動かなくなることもあるから気を付けないといけない。周りから見たら同じ事象でも、自分にとってはやはり気持ちのいい動機づけが肝心なのだ。

このような自分の取り扱い注意事項をいくつか持っているというのが年齢を重ねて得たものだろうと思う。ならば若い人は自分を上手く取り扱えなくてもきっと良いのだ。年齢を重ねた人も、別に取り扱い事項を持っていないことを嘆かなくてもいいのだ。生きていること自体が自分を知って取り扱いが上手くなることなのだ。そんなことを若いときに私も目にしたり、耳にしたことがある。言葉は知っていても、理解をしていても、身に付かないでいたが、やっとその意味が体感出来るようになった。自分はその年齢になっただけ~。

だが、その年齢もきっと人によって違うのだろうと思う。5歳で分かる人もいるだろう。死ぬ直前に「ああ、こういうことか!」と思う人もいるだろう。自分のマニュアルは自身の年齢に沿っていて、誰のものでもないから、気にすることはない。こうやって書いていることすら、意味の無いことで最初から注意事項に加える必要ない人もあり。人って様々だ。だから、私が若い頃耳にした言葉でさえも、興味も湧かず必要もなく、ただ通り過ぎる人もいるのだ。それでいいのだ。自分が今感じることに向かってそのまま生きるだけでいいではないか。・・・誰に対して言ってるんだろうか。結局、自分に対してのみ有効な話であり、書いても書いても意味の無い話になっている。

私は自分の取り扱いが上手くなったことで生きやすくなったが、それすら意識せずに生きられる人もきっといるのだろう。良いな~。この世界は広い。最近は書けば書くほどに自分の人生、たったひとつなのだと感じる。

では今日はこの辺で。

人を笑っている間に取り返しのつかないことを思い出し、祭りの気分に浸らされる。

トルコ料理を食べる。立て看板は出ている。メニューは分かる。だが、店内は灰色に見える。半分シャッターがまだ開いていないのに、店の前に立ち、時計を見る。姿はすっかり嫌な客だ。小雨が降り続いて今日は寒い。だから友人と早く入れないかな~と待っていると、店の主人がシャッターを開けてくれた。開店時間2分前である。しかも初の来店である。どうだろう。嫌われたかもしれない。

入ってもいいかと声をかけた友人に店の主人が「どうぞ。」と答えた。早速、中に入る。トルコ風の飾りが見える。天井から釣り下がったランプはガラスのモザイクで光っている。壁には青い目の魔除けの飾りも見える。ワインがお勧めなのか、種類が豊富で、説明が書かれた掲示やワインリストもメニューにたくさん載っていた。詳しく知らないが、ワインの美味しいものがあるのだろう。ランチの盛りが肉系ではなく、野菜や豆多めのものにした。レンズ豆のスープやトマト風の煮込み、フムス(なのか?)、風味のあるライス、大きなナスの上に肉や野菜で味を付けた物を乗せて焼いた物、葉っぱに包まれた肉の上にヨーグルトソースがかかっている料理、サラダもある。デザートはトルコアイス、紅茶が付く。安い。最近のケーキセットやランチセットを考えると、このランチはとても安価に感じられた。

店はとても小さい。4人席が二つ、カウンターに数名、残りは私らが座った2人席だったろうか。席に人が全員座るときっと狭い。肩が当たりそうだ。私たちの他にサラリーマンが一人で入って来ては帰って行った。仕事の合間にトルコ料理ランチだとスパイスの香りが付かないだろうか?などと思ったが、味はしても体には匂わないのかもしれないなぁ。インド料理よりいいのかもしれないなぁ。肉食も盛りが大きいのもあって、食べ応えはかなりあるだろう。夜より昼にここに来て肉を食べるのもいいかもしれない。今日は違うけれど。また来ようと思った。

その隣近所にそこの主人がやっているトルコのインテリアグッズの店もあったので、外から覗いてみた。絨毯やランプが見える。店自体は先程の店主に声をかけないと開けられないらしく、閉まっている。買う予定はないので今日は声をかけず外から見て満足して店を後にした。

歩いていると普段何度もランチやお茶をしに来ているところなのに、見たことのない店に遭遇した。あるアニメの世界観を表現したいのだと思われる店だ。ビルの中の上の階にあるし、どうしようかと思っていたが、何せ商店街全体が休みの店が多く、お茶を飲むところが探せない。場違いかもしれないけれど…と思いつつも、エレベーターに乗り込む。出たところにすぐ入口があり、先に注文・精算をしてから入ることになった。思っていたより、明るく広い。平日だったせいか、お客が一組のみいたがほとんど空いていた。街を見下ろせる角のテーブルに腰を下ろした。普段見られない上からの街の景色と開放感のある室内、形にこだわった椅子、隅々までに飾りをして世界観を広げ尽くしているなあと感じた。アニメのキャラクターがあちこちありながら、色彩のせいなのか、とても落ち着いてお茶を飲むことが出来る。この場所を見つけられたのはとてもラッキーじゃないか?たまに音楽会なども開いているらしい。へ~。結局、4時間もの間そこでのんびり過ごしてしまった。

今日に限って早めに閉めるのでラストオーダーになるんですけれど、と声をかけられて店を出ることになった。最初から窓のある角の方へ行ったせいか、反対側を見ていなかった。帰りにお店の人と話をしたら、なんと舞台も作っていると言う。音楽会をやる場所をそう言えば見ていなかったと思い、奥に進むと、そのアニメの世界観を上手く融合した面白い舞台がある。記念写真も撮れるような作りになっていた。著作の権利関係はわからないが、これだけ大きく作っていたらきっと関係者とかなのかもしれないなと友人と話して店を出た。

友人はその舞台で店の人に写真を撮ってもらっていた。どこにも見せるところは無いけれど、と言っていたが家族には見せるのだそうだ。それ位が十分でいいだろう。ポーズを取って、キャラクターに成りきるのは私は出来ない。恥ずかしい。友人は堂々とやっていた。すごいね!と笑いながら写真に撮られる友人を見ていた。が、私は舞台に立てかけてあった箒を見て、大道芸で指名され魔法の箒に乗せられて一緒にびゅんびゅん飛ばされたことがあるのを思い出した。ああ、だからお店の人に誘われても、箒の写真もポーズも勘弁してくれと言ったのだよなぁ。ん?誰かあのとき箒に乗った私を写真に撮っていないと言えるだろうか。気付くのが遅い。今になってか。げっ、やばい。大道芸のその写真、誰かが撮って誰かに見せていないことを祈る。

では今日はこのへんで。

行動には少し制限がかかりますが、心は自由にのびのびして構いませんよ

家族が仕事の資格を取るための研修に出かけたので、急に家の中が静かになった。家族を見送るついでに駅まで歩き、好きなドーナツやコロネを買って来て、夕食のおかずと一緒に好きなドラマを見ながら食べた。何だか思ったことが急にいろいろスムーズに進むから、それはそれでツマラナイ。贅沢な奴なのだ。

ピアノだって、じっくり好きなだけ練習が出来てしまう。バッハの曲のようにとにかく鍵盤の中を触って音を出す。バッハ風に印象派の曲を弾く。雨が近いせいで湿気が増えて、ピアノの音がこもっている。重い気がした。鍵盤の反応はあるが戻りが鈍い。ちょうど区切りがついたところでやめてみた。友人から明日の予定のメールが来ている。二度ほど返信を書く。何も気にかからず邪魔するものがないので、すんなり書ける。あっという間だ。

人が他にいないというのはなんということだろう。さらさらと物事が流れて行き、留まることがない。どうせなら面倒くさかったボランティアの書類を書き上げてしまおうか。今ならすぐ書けてしまうんじゃないだろうか。他の人は仕事や家族の世話、家の用事やなんかで忙しい中こんなものを書いているのか。へ~すごい。けれど、しまってある所まで行くのが面倒になり、結局はやらない。自分のやる、やらないはたぶん忙しさとかは関係なかろうと思う。どちらかと言えば気が向くか、どうかだろう。まずは風呂に入ることにした。

たとえ、こんな一日を描いた文章を書いたところで、何になるのだ。という思いもきっと出て来るのが普通だ。だが、自分が書くことを決めて書いて、寝ることにしたのだから、と続けている。人が「こんな文章を書いていたって何になる・・・」と言うこともあるだろう。でも、それも余計なお世話だし、そう考えたり感じたりする人のことをこちらからとやかく言うのも余計なお世話だろう。人は自分の考えで生きているのだろうから、他人に対して何か言いたくなることも自由だろうし、本人から私の自由ですよ、と思うのも自由だと思っている。

話は逸れてしまうかもしれないが、意地悪な人はいる。悪意を持っている人というのもあるだろう。けれど、そんなココロを持っていることは仕方ないことだと思う。意地悪な人だとしても、意地悪しないならいいのだ。悪意を持っている人も、その悪意を行動にしないなら何にも問題ないのだ。殺意が芽生えた、なんて言葉もあるが、その殺意を何らかの形で実行してしまうことが問題なのであって、気持ちが芽生えちゃったら仕方がないわけで、その状態を知った自分がその後どうするかなのだと思う。嫌な思いが芽生えたら自分でそっと静かに摘む。手放す。それだけだ。ダメなら誰かに相談すればいい。

・・・などと自分にも思っている。何だかんだ、この時期嫌な気持ちがモヤモヤ~ということがありそうだ。天候も不順で、人の流れも変わり、ストレスが多くなる時期だ。ツマラナイツマラナイ・・・とお経を唱えるように頭をぐるぐるとしていたことがこの時期あったなぁ。考えること自体を止める、なんて無理だよなぁと思うのだけれど、結構ここを止めようと無駄な努力を試みる人が多い気がする。考えてしまう、思ってしまう、感じてしまう。それは仕方がないよなぁ。その嫌なモヤモヤ~を実際に形や行動にしなければそれでいいのだ。それなら何も起こらないのだから。

考えているそれ自体が嫌だ、というなら他に目を向ける時間を増やすことだ。自分でその考えに囚われそうになったら、その考えに集中しない状態を物理的に作っていくこと。とにかく、面白そうでなくても、気の向くところへ動いて行き、気の向くまま何かを続けてやってみたりする。最初のうちは考えてしまうけれど、目の前のことに夢中になったりする。忘れられなかったとしても、何かをやっているというだけで、その間は書いて字のごとく「気が紛れる」状態になるはずだ。

と、自分に向けて書いている。モヤモヤ~もツマラナイツマラナイ、意地悪や悪意等も、全く無い訳ではなく、自分の中に湧き出て来たり知らないうちに消えていたりしていて、存在しているものだ。幸せなことに、生じたものを「どうするか」を選べるのだ。どう生きたいかを軸にして、さあ次どうするかだ。たまに不自由に身を任せるというのもいいかもしれない。他の人の型にハマっていると不自由だけれどとりあえず動けて、ツマラナイと思っている暇がなさそうだ。仕事なんかするのがいいんじゃない?って人には言うこともあるけれど、でも自分はやっぱり今のような暮らしがいい。今のところ自由に忙しいしなぁ。これはたぶん自分にとっていい感じなのだろう。

では今日はこのへんで。

今夜眠ったら「平凡な日々を過ごす夢」を見せてくれ

朝から目覚めが悪い。怖い夢を見て叫んで起きてしまった。どうやら昨日夕方テレビでやっていた映画を覚えていて、そのイメージが尾ひれを着けて、最近の不安と共に形作られて出て来たらしい。夢の中ではあんなに怖かったのに、起きてみるとよくある都市伝説の悪い噂話のようなものだっただけで、もしドラマなら陳腐なよくある作品にしかならない。それなのになぜか夢では恐怖が倍増する。声を出して起きてしまったのは、お化け屋敷で怖がらせられて、びっくりしただけのことのような感じなのにだ。

ただ筋書きはちゃんとあって、「なぜ怖いのか」がわかるものだった。今夜眠ったら同じ場面から始まる~とかはやめて欲しい。危ないし、暴力沙汰だし、あのままだと夢の中で死ぬ役だろうし。変えられるなら役を変えて欲しい。どう考えても被害者で、その後の展開ではもしかしたら正当防衛かなんかで生き残るけれど、後味が悪くなりそうだ。事件の謎を解く役とか、カッコ良さそうなことをやる役じゃなくてもいい。せめてダメな刑事さんとかエキストラみたいなものでもいいから、他の役にしてくれ~。勘弁して欲しい犯罪ドラマだった。

夢なのに、自分でなぜだか納得することもあるのが不思議だ。自分の夢に出て来るものはすべて結局自分だということも耳にする。夢の中の行動のひとつひとつ取り上げて行くと、説明が付いたりするのはそのせいだろうか。普段の日常の感情でさえ、夢と重なって出て来ることもある。あの時の、あの感情が出て来たんだな~と合点が行く。気持ちの表し方を違う人間を使って示していたりとかもする。夢は勝手で変幻自在、けれど良くも悪くも自分の今を表しているなあと思う。夢の内容自体がどうこうではなく、なぜこれを目にしているのかが問題なのだ。楽しい夢を見たときに楽しい結果を見たい自分がいるんだなと感じたり、怒っている姿を見て、現実には言わなかったことを代弁しているのかなと思ったり、その夢を見た自分の反応や理由を自分で知っていることに気が付くから厄介だなと思う。どうしようもなくて、仕方のないことだけれど、嫌なことも多い。

だからこそ、変な夢、嫌な夢を見た後には現実の日常の中での自分をどうにかするしかないなと思う。感じ方を止めることは出来ないが、少しずつどこか違うところへずらすことも出来ると思うし、ぼかしてみることは出来るような気がしている。黒いものを白には出来ないと言うけれど、黒だって白だって実はたくさんあるのだから。という、ただそのことを知ることだけでも変わることがあるのだ。きっと自分に変化をもたらす方法はあるはずだ。現実を変えて少しの感情や感覚の変化を起こすだけでも、全く違う方向へ進んで行くものだろう。

とまあ、ここまで来ると、自分は今夜の夢が気になっているとしか思えない文章を書いている。ふふふ。こちらの準備は万端だ。今日は朝から昨日までと違う一日を送ったのだ。好きなだけ好きな物を食べに行き、メニューもいつもと違い今まで食べたことのない物を選ぶ。無理せず電車に乗り、歩き、普段なら絶対に通らない古いボロボロの歩道橋を怖々渡り、家族の買い物にも付き合い、遠出することにも臆せず諦めなかった。自分の意思をゆっくり確認して優先して、予定を再度確認をしながらいくつかのメール返信をした。

まあ、外から見たら普通のことである。だが今日は結構チャレンジした。悔いはない。・・・悔い?やっぱり夢で死ぬのか。まるで最後の一日を思う存分生きたぞ!!とでもやっているかのような自分である。でも、毎日そう思いながら生きられればいつも素敵な一日になることは間違いないよな~。

気分爽快な一日だった。夢もそうであって欲しい・・・。では今日はこのへんで。