遊ばれる人とは、相手にとって安心安全自由な人のことを言うのでしょうか。

朝8時前から小学生と公園清掃のボランティア。普段ならまだご飯を食べてダラダラしている時間に、今日は忙しく動く。けれど、結構楽しい。子どもたちが元気で側にいる、というだけで何だかこちらも真っすぐな気持ちで頑張れる。初めてお会いする他の団体の大人や子どもたちと話しながら機械で切り取られた草をかき集めて、公園の通りを通って行く人に「おはようございます。」と声をかけていた。夢中になってやり始めると周りが見えないから気をつけて、周りをよく見てやりましょうね、と言われたが、一生懸命にやってしまうのは大人の方で、話し込んだり目の前のことに集中してしまう。なので気が付いた人から声をかけ合うようにしていた。

誰かが声を出すと、こだまのように広がって、挨拶も広がり、通行人が来たヨという合図にもなり、通った人からまた「ありがとうございます」とかのお言葉をもらうことにもなった。小学生たちがとても素直に反応していて、こちらが指示をしなくても挨拶や他の人にお願いする頼み方などを大人のやり方を見て真似をして、自然に練習出来ているようだった。学びってこういうのがいいなぁ。みんなで最後に写真を撮って、買って来たアイスを一緒に食べて日陰でおしゃべりをした。たった1時間程度だったけれど、とても楽しかったなぁ。

自分は子どもと一緒になって遊んでいるのが好きなのだ。大人のための要らない都合には子どもと一緒に反応してしまうし、文句も率直に出てしまう。だから教師にはなれないなぁと思って過ごしていた学生時代は、それでも誘われるがまま学童保育のバイトや障害のある子どものキャンプに参加したりと夏季休暇は費やしていた。特に子どもが好きだったわけではない。楽しませよう、ともあまり思わなかったなぁ。子どもと一緒に過ごして、自分が楽しくなるといいなぁとは思っていた。遊んでもらっていたのは私の方だったのだと思う。

今でもそれは変わっていなくて、今日も一緒に過ごす中で小学生たちの面白おかしい話をただただ聞いていた。仲間に入れてもらって遊んでいるようなものだ。そんな場所で、なぜか「先生」と呼ばれることが多い。今日いた子どもたちも、なぜか咄嗟のときに思わず「先生!」と私を呼んでしまうようだ。他の場所でも大人の人からも学校の先生だと思われることは度々あって、先生っぽいってどうなんだ?と思う。教師を目指さなかったのに、先生と呼ばれるって思いもしなかったなぁ。毎回呼ばれる度に可笑しくて、笑ってしまう。ああ、もしかしたら子どもに「遊ばれる人」なのかもな。だったらそれは何だか嬉しいぞ。

暑い一日で汗もいっぱいかいて、ボランティアの会議も出て、とても疲れているはずなのに、何かとてつもないパワフルな栄養をもらったような気がする。帰宅してからの雑務等がいつもはショートしてしまう頭で簡単に出来た。これからボランティアに限らず、毎日の中に何を選んで取り入れて行くのだろう。出来ることなら遊んでもらうのがいいなぁ。世間で言う遊んで暮らすというのとはちょっと違うが、遊び倒して生きて行きたいなあと素直に思う。

では今日はこのへんで。

真夏の日に満開の桜を想像した

アートの街に友人とぶらぶらランチに出かけた。最近はちょっと違う街並みも楽しみたくて、冒険している。ただ二人とも怖がりなので、あまりにも高級な大人の街や夜のお店が多い通りに行くのは避けている。時間帯が昼間なので、閉まっている店も多いところだったが、足を延ばしてみた。個人の小さな店やギャラリー、アトリエもちょこちょこある。以前アートを見に来たときにもらった町の地図を参考に歩いてみた。

前回来た時に入れなかったギャラリーとも何とも言えないイベントスペースがあったのだが、その中にキッチンがあった。そこに日替わりオーナーのお店が看板を出して営業していた。誰も入っていない。今まで土着のお店しか入ったことがなかったが、今日は友人とそこに入ってみた。友人は「変な食べ物出ないよね?」と心配そうにしていたが、ランチメニューは二つあって、どちらも海鮮がメイン。丼物を頼んで、お金を払い、だだっ広いスペースにある大きなテーブルの角に座った。席から川が見える。「良かったら蟹が安く手に入ったので蟹汁をつけてもいいですか」と声がかかった。アレルギーの有無を聞かれた。そのまま蟹汁にしてもらった。金額は変わらない。やったぁ蟹汁~。今日のこの店はそのときに手に入る海鮮物でメニューを決めて作っているようだ。蟹汁と漬け物が付いた海鮮丼。テーブルに持って来てくれた際に、並べられた海鮮を説明してくれた。久々にエンガワや貝類も食べた。量も多過ぎず少な過ぎず適量。のんびり話をしながら食べた。

食事し終わった頃に、数名お客さんが入って来て、他の奥の部屋をアトリエにしているアーティストの人も入って来た。時間がゆっくりしている。街をせかせか歩いて行く人が少ない。少し長めに一息ついて、さあ店を出るぞとなったときに店長が話しかけて来た。

「この近くに住んでるんだけれど、桜の咲き方が変わったんですよ。」と言う。ネオン街が減って、ファミリー層も住む人たちが増えて、桜並木のある川沿いにマンションが多く立ち並ぶようになって来た。すると川沿いに日陰が多くなった。そのせいじゃないかとオーナーは言っていた。昔は日差しを遮るものが少なくて、川沿いのどちらの桜も一度に満開となって、わーっと咲いて散る。期間も短かったが圧巻だったと。今はバラバラに咲くそうだ。あっちが咲き、こっちが咲く。だから、一度に咲かなくなって長く桜の景色が見られるのだ、と言っていた。

この街の新しい変化で活気付いたのは喜ばしい様子でもあったが、ちょっと寂しそうでもあった。近くでお店を開いていたが昨年閉店して、今はここで週一回オーナーをしながら他でアルバイトをしているが、またお店を開きたいとも話していた。街が活気づいて以前とはまた違った新しい街になって行く。「いつまでここでやっているかわからないけれど」と笑ってオーナーがドアを開けて見送ってくれた。いつか春にも来てみようかなぁ。街は生きものなんだなぁ。同じ場所にいても、見え方も見方も変わるのか。私らも冒険したくなってこの街に来ているくらいだからなぁ。変わって行くのだ。

では今日はこのへんで。

何かあったときはオロオロしながらでも何かしますから大丈夫です、と言われたら相手は心配して無理して来ちゃうかなぁ。

ボランティアの仲間で企画した研修会があった。児童相談所の方が来てくれた。里親の話や児童の虐待について話して下さり、あっという間に時間切れとなってしまったが、もっとそれぞれの話を担当ごとにしたいという話を後で聞いた。児童相談所の方も熱が入っているのは、これからも増え続ける保護数に伴って、養育里親など一時保護施設がもっと必要ってことなのだろうなぁ。

今まで児童相談所側の判断で司法判断がないまま進んで来た一時保護の話も、改めて聞いてみると、世界の状況からすると日本の方が少数派でめずらしいらしい。どこの国でも親の同意があることが大切、ということなのだろう。第三者から見ておかしいよと思っても、法律上では一時保護の期間も1週間と短くなるらしい。今まで一時保護から2か月間はそのまま継続出来たそうだ。親元で子どもが育つというのは基本なのだから、その都度考えつつ、司法の判断もありつつ、細かく期間分けして、手間はかかるとしても、その都度いい方向へ今後判断されて行けばいいなと思う。

一時保護している話を聞くと、けして一方的に乱暴に、急に引き離しているわけではないのだろうが、通告されて調査が入って、保護されて・・・というとき結局は親からすると同じことかもしれないなぁと想像する。先に子どもを緊急保護してから、その後に親に連絡が行くことになるので、親からすると職員との関係は「子どもを突然取られた」という最悪な状態から始まることになる。自発的に子育てに困って相談に来て、相談の上で一時保護が決まるのとは大違いだ。とても難しいことをやっているなぁと思う。

でも、周囲からの通告から始まるものばかりではない。最近は子ども自身が自分から児童相談所へ来て保護してもらうということが増えているという。情報や知識も小さいながら手にすることが増えたから出来ることなのかもしれない。親からの逃げ場を自分から求めることが出来るよ、ということが伝わっているのだなぁと思った。それで助かる命もあるのだ。そのことをきっかけに自分のやっていることに気が付く親もいるだろう。何とも言えない気持ちになる。

虐待を知ったら通告をすることがアメリカは義務になっていると聞く。医者とか学校の先生とか、身近な大人とかが気が付いて虐待を早期発見をすること。それは監視社会がベースとも言える。以前は早期発見なら良いのでは?と思ったが、見つかって通告されたら保護されてしまうということから、暴力を受けた子どもを病院等に行かせないようにして、発見されないように親が隠す方向へ動いてしまうというのを聞くと、今はどうかなぁと思う。問題点も明確に出て来た後追い型・摘発型と言われるものらしいが、それとは違って、これから日本はフィンランド発祥の予防型・支援型に変わって行くようだ。予防施策、相談支援を充実(もちろん一時保護みたいなものもある)させて、子どもが生まれたときには相談担当が必ず付くというものらしい。

そこまで実際日本が出来るかはわからないが、目指しているところは頼れる人が側にいるイメージに感じる。勝手な想像だが、人口が減って、母子そのものが減るのでもしかしたら可能になるかもしれないなと思う。年齢的に現場に出るのが大変な保育士さんたちが引退しないで、相談等に回っているうちに、下の年齢層の経験値が育って相談等回る…というふうになったとしたら上手く行かないだろうか。

制度も変わって行くが、一番大きく違うのは前提として「どこの家庭にも起こり得る」ことと捉えているところだろうなと思う。これは自分の身の回りにはないと思ったりしないで、自分の家庭にも起こりうること、もし起こったときには相談がすぐ出来るのだ、と思えるのがいい。

精神障害についての対応の仕方についても、フィンランドでの同じような話を聞いたことがあるが、生きていると問題は起こるもの、と思って、当たり前のことなのだと捉えるからこそ、隠すのではなく誰もが起きた問題をオープンにして話す場を持ち、相談も専門性のある人と自分が対等な関係で話せるようになっていて、結果自分で問題解決をしていくので、入院などしないで普通に暮らしている人が多いらしい。対話をする場を常に持っているようだ。話すときに自分だけが悪いような気になる関係では、人は心を開いて話せない(だよね?)。上から目線で話されても嫌だろうし、他の人が作った「理想のいい状態」を目指すことを押し付けられてもきっと嫌だろうなぁと思う。対等な関係で話すから「対話」なんだよなぁと思った。対話が出来てこそ、自分について気付くことが増え、解決へ向かうことが出来るのかなぁと思う。

さて、ボランティア活動はこれからどうしようかなぁ~。それこそ対話が出来る仲間がいる場所では自分も動きやすいが、やらされている感・使われている感だけがあるようなところだと嫌気が差して頭がショートするみたいに思考停止で全く動けない。当たり前か。対話が出来る相手と組むか、ずっと対話を試み続けるか。そんな気力あるか?

では今日はこのへんで。

苦手なのだとケーキ屋の主人に言えなかったことで、おまけでもらったロイヤルミルクティーを飲みながら帰宅した昨日。

オリンピックが始まるんだってね。カウントダウンされてもピンと来ない。フランスでやるなんて、もっと先のことだと思っていたのになぁ。オリンピックの日を待って楽しむという機会をすっかり逃してしまった。たぶん一ヶ月位して、「そうだったんだ」といろいろ終わった後に気が付く感じだろう。タイムリーに楽しむとかが出来なくなった。オリンピックがどうしてワクワクするのか、忘れてしまっている。

子どもの頃はオリンピックを見ていて、人の能力ってただすごいなぁと思えた。今じゃ何だか政治的な思惑や、開催のための犠牲を考えてしまう。すっかり表舞台に興味が無くなり、裏で行われた出来事がニュースで流れて胸を痛めることが多くなった。情報が目に留まると、大きな晴れ舞台だったものが「何を犠牲にしているのか」と気になって素直に目に映らなくなってしまった。選手の人たちが頑張っていることは素晴らしいなぁと思う。けれど、大きな政治的な目的での動きがあってこその舞台だから、どう世界が変わるのかなぁと不安が過るようにもなってしまった。目をつぶればいいのかもしれないが、何か大きく成し遂げる、変えるまたは動くということは、誰かが何かを大きく変えられて、負担になっていることがあるということだ。

ちっぽけな私も、のほほんと暮らしているということは、気が付いていないところで何らかの事柄の上に成り立っているんだなぁ。何かを成し遂げたりもしていないのにねぇ。そういう意味ではどこか何かの力でたまたま生かされているんだなと思う。これから変わって行くのかもしれないけれど。自分もこのちっぽけな力で大きな何かがじわじわ変わってしまう一因になっている。意識しようとすると、怖いんだよなぁ。すべてをわかるということは出来ないから、すべてに自分の理解と選択や判断を行えるわけじゃない。ただ生きていて、大きな何かに流されている意識もないまま、それでも生かされているのだから、今は安泰なわけで。結局、好きなように思ったように動くしかないよなぁと思う。じっとしているということも出来るけれど、どうせきっとそれでも物事が変わる要因のひとつになっているのだ。逃げても、ずっと逃げていても逃げられないのだ。

朝からオリンピックのことなんて考えて、窮屈になっちゃうんだなぁ。世界が繋がっている、ということは楽しい&素晴らしいと素直に喜べた自分がいた頃は何だかうらやましい。書いていくと、どうも行き詰まる。今日は思考で狭くなった世界を、体を実際に動かして「アレ?広かったんだ。広いんだ。」に戻して行こうかな。

ゴミを捨てに行ってふと見ると、誰かが慌てて捨ててしまったのか、袋が少しの出っ張りに引っかかっていた。ゴミ袋の端っこにスーパーボールが詰まっている。その角を持って、ゴミ箱に入れようとしたが、袋が少し引っかかって少し穴が開く。袋はゴミ箱の中には入っていった。でも球がどこかに転がってしまったか?深くて広いゴミ箱の中に自分の目も手も届かない。ゴミ回収屋さん、ごめんなさい。手間をかけてしまうと思います。謝罪の合掌。蓋を閉めようとしたら、猫砂のようなジャリジャリしたものがまた引っかかって飛び出ているのを発見。何だコレ、とすぐに中に戻し入れたが、砂が落ちていないことを祈る。また破ったかもしれない。音はしなかった。蓋を閉めた。

「おはようございます。」と近所の人と挨拶する。良いことをしたつもりが、手を出したことで、もしかしたら余計なことをしたことになるかもしれない。そのままが良かったのか?近所の人は私がその二つのゴミ袋を中に入れるのを目撃している。どこか後ろめたい気持ちになる。自分の思いとは裏腹に違う事象が起こるもの。それが世の常だなぁ。仕方ない、今日も好きに動くか。

では今日はこのへんで。

ホラー映画より、幽霊より、この暑さの中で地震が起きてTシャツ短パンで路頭に迷うことが今は怖い。

ひたすら場所を移動しながら書いている。家の中で涼しいところを探しているが、緑茶を二杯立て続けに飲んだせいで、おそらくカフェインが急に体に入った作用で代謝が上がって汗が噴き出していて、どこにいても汗だくになっていて暑い。昨夜爆睡していたから眠気もないのに、カフェインでより目が冴えてしまう。しかも何だか動き回っている。ついでの動作が多いのだが、最近の暑さで避けていたことも、すんなり手が伸びる。次で良いか、と思っていたペットボトルたちをすぐに捨て、その足で古い木の雨戸を開け、足元に伸び切って邪魔していた雑草たちを軽く処理した。ほんの数分、数秒?の短い時間の手間を「暑いからいいや」と先延ばしにしていたが、今日は手が伸びる。

カフェインだけのせいではないだろう。ボランティア仲間の一人から、パートナーが回復して来たよという知らせが昨夜入って来たというのも大きい。胸のつかえが一つ減った。薄く何枚も層になったミルフィーユみたいに、少しずつ人から勝手に感じ取ってしまった寂しさや辛さを心の深いところで重ねて行ってしまっているのだと思う。それがたまにひらひらとより薄くなって砕けて解消されると、たった一枚の層のひとつであったとしても、軽くなる感じがする。解消されないものはたぶん生きていたらたくさん積み重なって、もう意識が届かないというだけで残って自分に影響を及ぼしていたり、いなかったり。自分を見えないところで形作っているのだろうと思う。

とまぁ、ほんの少し解消された感じがあって、実は自分の重荷になっていたんだなと後で気が付く。長い1ヶ月だったなぁ。

昨日夕方、ホラー映画を鑑賞。昔の映画を家で一人で観た。子どもの頃は、自分の家族が怖がっていながらそういう映像ばかり見たがる人だったので、一緒にクッションを抱えて家のソファに座って画面に向かうということをしていた。何でこんなことを思い出すのだろう?私は一人で観たことはほとんどない。誰かがいる場所でしか見ないのに、なんだか昨日は見てみたくなった。盆の時期だから、亡くなった誰かが訪ねて来ているのかもしれない。ちょっと亡くなった人たちを思い出せ、と。7月と8月、なぜか盆の時期にそれぞれ亡くなった人たち自身が「今が盆だ」と思う時期に、やって来るのだろうなあと思っている。自分では思い出せない人も、思い出す人も、ごちゃ混ぜにきっと来ているのだろうなぁ。何となく知らない人の気配と、動物の気配がした。今日はもういない。

観た映画はと言うと、ちょっと家族愛を描いた映画でもあったが、最後は後味は悪い。というか、お決まりのパターンで、ハッピーエンドぽく終わりかけてそうじゃない、っていうもの。王道か?ホラーとか誰かが作ったものは怖さが「驚く」感じのものが多くて、たまにはいいな。怖さには種類がたくさんあるけれど、自分が理解出来ないものというところに怖さがあるのだろうから、自分の理由付けが出来ないものやモヤモヤとした訳の分からない感覚が残るものに出会ったとき、初めて怖くなるのかもなぁ。そういう意味では「ああ、そうだね」と思うものが多くなった。大人になって、ちょっとつまらなくなってしまったと同時に、ただそのときを案外楽しむことも出来ているような気がする。後を引かないからね~。一人暮らしで夜気になってしまったら眠れないからちょうどいい。

怖さについて、考えてみると人それぞれなんだなぁ。怖い顔して出て来る何かについて「だから?」「で?」という反応をする人もいる。見慣れてしまえば怖くないのだ。慣れは鈍感になる。究極の怖さは「死ぬかもしれない」というところだろうが、それすらどうでもよくなった人には「だから?」ということになる。生への執着がないから、生きることへの意欲がない場合、太刀打ち出来る相手はいるのだろうか。けれど、実際には死ぬのはいいけれど、食べられて死ぬのはいやだ!とかいうセリフを映画で聞くことがある。死に方には執着しているのかなぁ。怖さって、自分の執着しているところにあるのかもなぁ。

では今日はこのへんで。

働く人がいなくなるとは、お金で動く人がいなくなるってことか。

湿度が低いからか、温度が上がっているにもかかわらず、涼しく感じる。蒸し暑さが一番体にこたえる。蒸し暑いと、何もしていないのに疲れが倍増するから、それに比べて今日は過ごしやすい。

朝から食べたい物をしっかり食べて、昼過ぎに買い物に出かけた。日差しもそれほど熱くない。カラッとしている暑さは平気だ。とは言え、猛暑の中、出かける準備は大事だ。10分もかからないスーパーへ行くだけなのだが、一応保冷剤を手に握り締めて冷やしながら、水筒も持つ。家を出る前にカップ一杯の水分を取る。汗もたくさんかくので、小さなタオルを持ち歩く。完全な日傘というわけではないが、急な天候変化もあるから、必ず折りたたみの傘を開いて持つ。用心に越したことはない。この年齢から準備を習慣にしておけば、年を重ねたときに億劫になったり年齢の変化に対して自分の若さを過信したりしないで済むはずだ。

歩いて行くと道に人が少ない。けれど、猛スピードで進んで行くママチャリや、ゆっくり歩いている高齢者もいる。こんな時間帯に大変だなぁ。一人の高齢者が同じ道の向こう側から歩いてくる。角を曲がって見えなくなったと思ったが、違った。日陰にある出っ張ったコンクリートの仕切りのところで汗をふきふき腰かけて休んでいた。まだこの道の坂を上って行くのか。何度か気になってチラチラ見てしまった。倒れたりしてもおかしくない。この暑さなのにどうしても出かけたりしなければならないこともあるだろう。自分も冷蔵庫が空っぽになってしまったので、夕立が来る前にと思って出かけている。雨が降って、夜涼しくなってから出るのもいいのだが、意外とお店に何もなくなっていることが多くて、買いたいものが買えないこともある。そうなるとやっぱり昼間無理して出ちゃうんだよなぁ。

高齢者一人暮らしには配達とか御用聞きとかがいいのだろう。けれど全く買い物がなく出かけなくなるのも困ったものだから、塩梅が難しいが。今は何でも運んでくれる。お金を出しさえすれば、という条件付きで。けれど、働き手がいなくなる数十年後では、きっともう運んでくれる人も限られて来るのだろうなと思う。私が高齢者と呼ばれる年齢になる頃は、お金を出したって働き手がいないのだから、運んでくれる人がいなくなるのを想定していかないと。

歌の仲間とも話していたが、老老介護が当たり前の世の中になるのだから、自分たちは元気でいなくちゃ、ということが現実となるだろう。お互いが出来ることをそれぞれ協力してやることで生活をしていく。少し前の高齢者ばかりの田舎の暮らしがモデルかもしれないな。他に若い頼る人がいないのだから、どんなに高齢であっても過酷な場所であっても動くしかない。動かないと生きて行けないのだから。そんなことを思い浮かべている。それはある意味生きる活力を湧かせるものでもあって、元気を奪うことではない。弱者と言われるような人間ばかり集まったら、その弱者の集まりの中で付き合って、どうにかして生きて行くんだよなぁ。

けれど、若い人が集まる都会のような社会の中で、いつか年を取って社会に必要な能力がないと弱者認定された場合、何がモノをいうのだろう。お金はまだ使える代物だろうか。誰もが足腰が立たなくなって、腕力も知力も弱くなる時期はその先に必ず来る。認知症とかが進むと機嫌が悪くなるという。そうなると人との関係も自分でどうにか出来るものじゃないよな。何か出来るとしたら今だけかもなぁ。それとも、そんな自分であってもまだ何か出来ると思えるだろうか。そんなことを思った。

では今日はこのへんで。

酷暑です、とパソコンが言っている。

暑くなるから、涼しいうちにいろいろやっておこう、と思っていたが、結局朝ご飯を食べ終わるのが遅過ぎて午前10時を過ぎる。洗濯とピアノの練習と予定表の確認、ゴミ捨て、ミョウガの採取をしたらこんな時間だ。外は暑いし、さあどうしようか。

水を触るとそれだけで冷える。朝食後の片付けや洗濯物を干すときに、水の涼しさを感じる。洗濯物を干しているとその場で蒸発して行って、熱を奪ってくれるから、それだけで涼しい。今日は暑くなりそうなので、カバーを一枚洗って、ベランダを覆うようにして干す。日除けにもなるし、熱を奪って冷えた風が入るはずだ。茶碗を洗っているときも、水を流しているだけで涼しくなる。

きっと昔の日本人はたくさん水を触って、夏を涼しく過ごしたのだろう。祖母の家で過ごした夏を思い出す。山の水で冷やしたスイカを食べたり、洗濯や炊事など家事を手伝うだけで手がほどよく冷えて気持ち良かったなぁ。近くに夏の間は無料のプールみたいなものがあって浸かっているだけで良かった。山から引いたちょろちょろ出て来る水が池に流れていて、見ているだけでも良かった。涼し気~。

今はどこにいっても物理的に冷え冷えになっているせいで、暑かった体全体が急に一瞬で寒くなる。汗が冷えて気持ちいい、とはならない。ほどよく暑くなったり涼しくなったりしないもんかなぁ。今パソコンで文字を打っているそばから、手の甲に水滴が付く。汗をかいている。だから少し風が吹いたり、ちょっとうちわであおぐ度に涼しくなる。私の家が涼しいらしいから、他の人にはお勧めしないけれど、汗をかいて体が冷える程度がちょうどいいなぁと思う。

とは言え、二階にいるとものすごく暑くなる。一階に避難しよ。人は食事からも塩分や水分を取っているので、食事が取れていない人は普段より多めに塩分と水分を取るようにして、お気をつけて。

では短いけど今日はこのへんで。