にんじんは煮えた、ではなく小豆ともち米が煮えてしまったのです。

お彼岸が来週来る。もうすでに何となくお彼岸だという気分になって、昨日からおはぎを作る用意をして、米を浸したところで気が付き、すっかり今週末はフライングお彼岸日になってしまった。小豆を慌てて買った。今思えば、いつもならセールになっているのに、そういやセールじゃなかったな。もっと早くに気が付けば取りかからなかったのだが、小豆はもう煮え上がっている。もち米はすでに炊かれて半殺しされるのを待っていた。まだ近所で彼岸の気配もないのに、なんてことだ。いつもと同じ量作ってしまったので、実家に年金を引き出して持って行くついでにおはぎも持って行った。暫く、うちで食べる米飯はおはぎになる。

そのとき、ちょうど猫の餌を一匹分頼まれた。2週間分。下ろしておいたお金から買い物した。きっと渡された現金が足りないと文句が出るだろうと思いながらも、一か月の手持ち現金の中から買えば値段も知ることになるから良いだろうと思って、レシートと共に封筒にお金を詰めた。案の定、足りる訳がない、と言い出した。特別イライラしていた訳でもないが、腹が立ってしまった。というより、どこか思っていたことをまとめてしゃべったという感じかもしれない。怒鳴るわけではないが、今日は玄関内でまくし立てた。帰り道、やっぱり、自分は腹が立っていたのだなぁと思う。

ついでに書くと、親はここのところの物価高も気にせず、余分な物を買って私にその始末をつけさせる。また卵だ。また2パック余る。捨てることになるのでもったいないから、今回も持って帰るのだが、これで何度目だろう。卵が余ったら余ったなりに暮らしを一定期間変えてみるということもしないのだ。新しい食材を買わずに卵料理をしろよ~と思うのだがその気は全然無いのだ。

たぶん、目の前にある物で過ごす、という感覚がないのだ。この間は米が無い、と電話口で騒いでいた。見つけたら買って置くが、無いときにどうするか考えて欲しいと伝えていたのだが、結局親戚が送ってくれた(本当にありがたい!)ので、本人は何も考える機会はないまま難を逃れてしまった。暫らくは米不足でも、問題なく過ごせる量をもらっている。こうやって何かある度に自分で考えなくても良いままで、今まで過ごせて来てしまったのは幸せなことだろう。だがそのせいなのか、お金の遣い方も同様で、持っているお金でその期間過ごせるようにするという思考が浮かばないらしい。ただただお金が足りない、だからお金が欲しいと言う。足りるように暮らす、優先順位を考えて遣い方を考えるというのが出来ないようだ。

まぁ、親はそうやって生きて来られて、きっとこれからもそうやって生きて行く、という親の生き方があるのだろうからと、自分は押し付けられた無理難題は断ることにしてるので、昔ほど困ることは無くなっている。親は親自身の問題、自分は自分自身の問題を抱えることで済む。昔は親の問題を背負わないと「助けてくれないの?」と言われて断ると冷たいと散々言われていたが、今は助けたくても助ける術が無いと伝えて、本人だけに困ってもらうようにしている。

そう、一緒に困る相手というのは自分で選べるのだ。気が付いたのは遅かったなぁ。結局何でもそうだが、自分の中の優先順位を大切にしていくことなのだ。自分の家族を守ることが私の最優先となる。誰を甘やかし、誰を守り、誰の困りごとを一緒に悩むか。自分の人生の時間も持っている物も限られているのだから。一緒に悩みたいと思える相手は他にいたのだ。今でも親に力を貸せることは精一杯やるが、他は無理だ。自分には背負えない荷物があることを認めるようになったとも言える。親には生み育ててもらったのにもかかわらず申し訳ないが、私が親から離れて自立して生きているということだけで、子としての役目を果たしていると思って欲しいなと思う。これは自分の願望だ。きっと親とは違うのだろうねぇ。それぞれの人生だから。

では今日はこのへんで。