ああ、好きなんだね。

行かなきゃいけないわけでもないのに、出かけるんだと決めていた朝は慌ただしい。そしてなぜか二度寝して寝坊する。そんなにしてまで行かなくてもいいのになぁと思うのだが、ボランティアの会議が入っていることでなかなか行きたくても行けなかったオルガンの演奏会に行くと決めてしまった。あれだけ悪天候が長引きそうな空も回復している。電車も普通通り動いている。近所の小学生もごくごく普通に学校に登校している。外の環境によって動けない理由はない。

じゃあ行くのだと決めた。ほとんど無料みたいな演奏会だから、かかるのは電車賃だけ。あとは外食やちょっとケーキを・・とならない限り、散財しないはずだ。時間も昼のランチタイムにやっているから、お腹が空いたときに寄り道しないで帰って来られるように豆ご飯のお握りを持って行くと決め、リュックに詰めた。演奏会に出す小銭もあることを確かめたし、ブログを開くついでに電車の時刻も確かめたぞ。よし。

と言うものの、いつものジャージ姿から着替えていない。しかもまだ一時間半はある。洗濯物をひとまず外に出して、着替えてみる。身支度が済んでいれば、リュックを持ってすぐに出かけられるぞ。歯を磨き、髪を整え、結局窓をひとつ閉める。洗濯物をお日様にもう少し当てておきたい。じゃあ、まだ出しておくか。窓を開けておいて、後で閉めるときに確認すればいいよな。

仕事に通っているときは、荷物も戸締りも身支度も、出来る限り早め早めにやっていたけれど、最近はギリギリまで他のことをやっていて、家を出る10分前くらいでバババ~っとやって出ることが多い。中途半端にいろいろやっていると、結局何かを忘れてしまうことがあるから「これをやっておいてアレは後」とかは出来ない。今、リュックの中身もすべては揃えておらず、まだ中途半端だ。戸締りの窓なんかひとつしか閉めていない。大丈夫なのかといちいち心配になる。決断がイマイチなときは放ってしまった方がいいな。

ひとまずピアノの練習をしようとする。とりあえず、昨晩から練習はしてから行こうと思っていたのだ。20分位で足の付け根が痺れる。筋トレや動的ストレッチをしているからか、骨盤の位置が変化して、以前より座りやすくなったにもかかわらず、座り続けるというのが出来ない。一旦、ピアノから離れて休憩する。今のうちにお茶を飲んでおこう。トイレが近いから、今のうちに飲んでトイレに行って・・・とまた準備モードに入る。

出発前にあまり集中出来る訳もなく、結局そのまま、またダラダラと出かける準備を継続。集中してしまったら、それはそれで時間が吹っ飛んで「あれ?そう言えば何だっけ?」と出かける予定があったことすら忘れてしまい、問題だ。きっとこの位の集中力の無さで、普通の毎日はスムーズに動いているはずなのだ。いわゆる普通の生活を送るにはきっと集中力は要らない。淡々と目の前の物事を処理する、みたいなものだろう。まぁ、それが嫌で今のような生活をしているというのに。こんなふうにしてまで、今日は何のために、誰のために出かけるのだろう。

ひとまず、準備が出来た。予定していた時間まで10分ほどあった。やっぱりピアノが弾きたくなる。一曲が弾き終わる時間×2だ。2回だけ弾く。おお、時間ピッタリだ。出かけよう。

それでもすぐに出るわけではなく、ちょこっと心配な戸締りを確認したり、やっぱりトイレに・・と結構予定外のことをするためのロスタイムがある。それも加味した時間配分だ。自分の習性に目をつぶるのではなく、十分に余裕を持ってじっくり事に当たり、誰に気兼ねをすることもなく、という状態で色々やってから出る。小さな心配事の回収を後回しにはしない方がいいのだ。今出来ることは今やる方が、スッキリして動けるものだ。

それなのに世の中は急ぎ過ぎて、そういう自分だけのものに目をつぶるのが当たり前、後回しにして急いで次へ向かい、その後忘れてしまうように出来ている。忘れてもいいこともあるけれど、心の中で気になった大事なことも一緒に忘れてしまい、ぱっと見は無くなったように見えて、何処か心の隅っこでジメジメしてジクジクしていたりすることもあるのだ。誰のために自分の何かに目をつぶって動き回っているのだろうねぇ。

などと書いている自分も、なぜこんなに行こうとしているのだろう。ああ、聴きたいんだよ、オルガンが。ちょっと無理していても行きたいのだ。今日行って、もしこれで「つまんなかった」って終わるなら、それでもいいのだ。もう行かなくていいや、という決断をするためでもいい。やってみて、どうなのかを自分に常に確認したい。オルガンの予定を決めたのは先週だった。自分の気分も変わるから、演奏会というのはその気分が旬であるかどうかはとても大事だ。今日はまだ旬だった。

タダみたいな演奏会に集まる聴衆の雰囲気も、高いチケット代を払って聴く会場の雰囲気とは異なる。笑っちゃうくらい、いつだって拍手のタイミングが下手だ。演奏途中で出入りを平気でしちゃう人も結構いる。演奏者も割と若手だ。けれど、そういうものが聴きたいのだ。身近な場所で誰にでも開かれた音楽を奏でているなあと思える。ちゃんとしたホールでいい楽器を弾く人がいて、それを誰もが聴く機会を得られるというのがいいなあと思う。もっと音楽が身近に溢れる国にならんかなぁ・・・。その私の欲求や目標を満たすひとつがこのオルガン演奏会なのだ。主催者は努力しているなあと思う。感謝だ。

ところで、演奏会でオルガンを聴いたり、吹奏楽を聴いたりしているときは、度々私は居眠りをしている。今日も寝ていなかったとは言い難い。あの場で眠るというのが心地良いのだ。友人の吹奏楽の演奏会は寝るために行っているときもある。演奏会をどう聴くか、どう利用するかは聴き手の自由であるのだ。音楽を聴くというのは何も耳で一生懸命聴くばかりが、聴くではないなと思う。弾き手からすれば、相手が自分の音に包み込まれるだけでもいいなと思うからだ。

まあ、心づもりがそんな感じだから、終始ウトウトしていた。控え目な音色で少しお淑やかな印象。音は細かく整理された無駄のない感じ。派手さがない。そう感じるのは、いつもとは座る場所を変えて、頭の上からゆっくり静かに降り注ぐようなところを選んだからかもしれないなぁ。また違いを聴いてみよう。同じ演奏者の人が弾く演奏会チケットを買ってみようかな。

では今日はこのへんで。