ミステリアスな人、というのがここ最近いないのは、SNS等でどんな人も見た目も心の中も露出が高くなってしまったせいなのだろうか。もちろん露出が高くなったところで、誰か一人が誰か他の一人の全てを見られるわけではないのだが。見たい知りたい欲求を満たす程度も人によって違っていて、それにどんなに知ってもその人を知り尽くすことなどは出来るわけがなくて。それはそうなのだが、興味を持つ前にたくさん押し付けられているかのように情報が伝わって来てしまい、自分一人でどんな人なのだろうかとその人を想像し知りたい欲が搔き立てられる部分が少なくなって、面白みがない気がしている。
意外性、なんてものはどこに行ったのだろう?知りたいと思う前に矢継ぎ早に情報提供がたくさんされてしまうせいで、興味が湧くかどうかもわからないのに自分で考えてもいない内に情報は満杯になる。私みたいに知ったら飽きるのが早い人はどうしたらいいのだろう。人に興味が湧く前にすでに自分から知りたいという気持ちなどなくなっている。そのせいか画面から伝わって来るような人のことは自分から知りに行こうという欲求が失せている。なんだかもったいないなぁ。時間はたくさんあるのだから、楽しみに少しずつ・・・ということがない。
だから、気に入ったと思った音楽家のことは流れている情報で知るより、演奏会で本人を目にして知りたいと思うので、出来るだけ溢れて出て来る情報に目をつむっている。今の時代は手品の種明かしを先に言われて手品を見るようなもの。そういう面白さもなくはないが、自分で知りたいものをちょうど良く少しずつ自分の欲求に応えながら、楽しみながら関わって知りたい。せっせと何かをすぐググる人の反対方向へ私は進んでいる。いろんなもののスイッチを切るのだ。ネットワークが繋がっているモノを切って行く。今の世界はそれしかなさそうだ。
人は一つ二つの出来事でも目一杯で心は満タンになるものじゃないだろうか。気に入ったと思った真新しい物でさえ、たくさん目に触れればすぐに慣れてしまう。最初の感動やら興味や好奇心、そういうものがあっという間に慣れというものになって、色褪せやすくなって来たと感じる。もちろん、その中で長く飽きの来ない人やモノというものがあるのかもしれないが、最近は時間が加速しているかのように早くに飽きが来る自分がいる。とても面白いと思えていた「人」への興味ですら、危うい。こちらが望んでいるわけではないのに、たくさんの情報が提供されて、まるで全ての楽しみをこんな短い時間で享受出来ちゃうよ、と思わされてしまって、生き急がされているような気になる。なんだか、自分の持っている欲が減らされてしまったなぁ。その人を知りたい欲求。どこへ行った?たぶん自分の感覚が追い付いていないのだ。
などと、書いているが、年を取ってただ単に今まであった自分の欲が減り続けている最中なのかもしれない。もっと若かったりしたら、違う側面があったり、思っても見ない方向へ刺激が進んで、新しい欲が生まれるのかもしれない。年を取っただけ~と言われるだけかもなぁ。リアルで会う、人との出会いも興味も、ゆっくり少しずつ知るのが良くなっている。ゆっくりしている時間の流れのその隙間がたくさんあって、自分がどう感じているのか等、想像もたくさんふくらますことが出来て、自分の中により面白い感覚が培われて入って来る。昔はお互いもっともっとたくさん、早く早く知りたい知り合いたい、だから出来るだけ多くの情報を!と思っていたというのに。世界全体がそうなって来た頃に、自分が反対方向へ進むとは思ってもみなかった。スローよりスピーディを求めていたはず。望んだ世界がやって来た頃にはすでに別の自分になっているものなのだろう。変化は速いもんだねぇ。さて、スイッチを切るかな。
では今日はこのへんで。