ピアノだって誰かの演奏を電極を通して初心者が弾けてしまう世界だけれど、そこに演奏者の長い練習時間の思い出は組み込まれてない。

なんだ、これで良かったんだ、と思う。英語を学ぶための本を借りて読んでいるが、自分が知りたかったことが書いてある。自分の感覚やこのことが知りたかったのだということにピッタリ当てはまると読み進めるのもとても楽だ。たくさん読んだからこそ、ピッタリの一冊に出会うのだろう。最初からコレだ、というものに出会えたらラッキー、そうでなければ雑学や違う視点も増えて、またそれもラッキーなことなのだろう。どちらにも利点はあるのだ。

何を知りたい、何をやりたい、どんな人と出会いたい、どう変わりたい。その「何」「どんな」「どう」なのかが結局は大事であるなあと思う。それらがわからないとしても、わかるために右往左往すればいいのだ。右往左往しないで簡単に結果だけ手に入れたい、みたいな気持ちにいつから自分もなってしまっていたのだろう。自分の面倒くさい、というのはもっと違ったところにあって、そもそも行動する方向性が違っていたから、動かない・動けない・動きたくない・・・ということになっていたのでは?と思う(単に体調が悪いことも多いけれど)。自分の胸の内を知らず、世の中の動きに合わせ過ぎて、目まぐるしく動くスピードに疲れてしまったのだろうか。どこか合わないものだとわかっているものに合わせるって疲れるもんなぁ。

周りに合わせず、自主的に右往左往する今の暮らし。本来、それでいいのだろう。煽る人はいる。自分以外の誰かや周りのすべての環境がいろんなことを言って来るのだ。けれど、自分の声を聞いて、自分を動かし、イイ感覚を味わうのは、自分にしか出来ないことなのだなぁと思う。書いていて、何だかとても当然で散々言われ続けていた言葉なのに、自分が書いていると、自分からその言葉に気持ちが乗っているからか、感じ方が全然違っている気がする。素直に納得出来る。誰かの言葉を語っているときはまだ自分のものじゃないんだなぁ。

とは言え、人の言葉をたくさん聞き、語り、取捨選択が体験的に行われ、やっと自分の言葉になって行くのも然りだ。若い頃、子どもの頃、人の言葉に耳を貸し、どういうことだろう?と何度も咀嚼し続けて来た言葉たちが自分の身を作り上げている。変な言い方だが、この身は他人から与えられ、作られたのだ。産み落とされ、言葉やいろんな感覚を注ぎ込まれる。そうやって大きくなって、年を重ねて、今がある。莫大な時間をかけて作られた今の自分。たぶん自分でも覚えていないし、思い出せる時間を同じ時間持つことなど一人分の一生の間では出来るわけがない。振り返ったら何もなかった、なんてこと、ないのだなぁ。細かい小さな出来事が自分というものを作っている。自分と同じものはどこにも存在しないんだよねぇ。すごい。

電車に乗るとスマホを眺めている人を見つめながら、度々思うことがある。電車の中の人が誰一人同じ人がいなくて、そのひとつの体に全くそれぞれ違った頭があり、違うことを考え、違う人生を生きていると言われている。それぞれが考え、動いて生きている。ものすごいよなぁ。こんなにたくさんいるというのに、同じものがひとつもないのだぞ。出会った人たちの中でものすごく似ていると思っても、やっぱり違う人だ。違う時を生きて来た人。私たち人間は、まぎれもなくそれぞれがたった一人しかいないんだよなぁ。そのことがちょっと恐ろしくも嬉しくもある。

もうお腹が空いてきた。今日はこのへんで。