ラスト1周だよという優しい声かけをたぶん忘れて今も周回中

書いては消し、書いては消す。暫くこんなふうに書くことについて、ためらったりすることはなかったなぁ。それだけ読者というものを意識し始めたのだろうか。意識したところで、ごく普通の生活をしている自分である。何か面白いネタが出て来るわけでもなく、また今日も画面に向かって書いている。

書くと言えば、手紙は昨日2通書いた。メールではなく、手紙。文字を書く時間をセーブしていたわけではないけれど、書くことを後回しにしてしまっていた。まあ、遊び回っていて、書く時間がなかっただけ、ということもあるが、何か一区切りついてから、という気持ちもあったように思う。いつもは殴り書きで何も考えなかった文字に、重力が与えられたような感じである。重い。こんなに思いや言葉が重かったっけ?新しい変化かもしれない。きっとブログ効果だと思う。

一度何かピークに達するとか、一区切りとか一山とか。そういう時期になるとぐちゃぐちゃになって空っぽになって崩壊する時期がある。ピアノ発表会前にずっと弾いていると同じ現象が起きて、「弾くって何だっけ?音楽って何だっけ?」と一度崩壊するのだが、同じような感覚が起きているのではないかと思う。これは人生の中で味わって来なかったことだ。たった2ヶ月ほどブログを書いていただけなのに、だ。自分でも驚いている。以前ブログを書いていた頃とは違うようだ。なぜだろう。

もしかしたら「書くこと」に改めて向き合い、なぜ書いているのかということを問い始めたのかもしれない。今までそれほど向き合って来なかったのは確かだ。ただのツール、自分の体にたまっている言葉をただ出したいという気持ちから出していた。それは大して変わりない。じゃあ、言葉を出す欲求が底を突いたか。底知れないと思っていた言葉への欲求がついに空になったのか。だとしたら人としてどうなんだ?変化が続くものだし、感情が刺激されて、言葉や自分が何もなく空っぽになることなど無理だろう…。

だったら、言葉にすることを頭の中でためらっているのだろうか?へ~。そんなことってあるんだ、である。恥じらいとか謙虚さとか。無縁だと思ったのになぁ。文章を評価されたいとか?それだと感情の赴くまま、垂れ流す言葉に何の価値があるのだろう。評価、価値。うむむ。一体何だろう。評価って、誰か明確な物差しで見ていて、何かを誰かと比べられているのか。それを自分が望むのか?否か。

否か、と書く際に手が止まった。否か、ではないのだろうと気が付く。確かに評価ではないけれど、誰かが読んでくれることに対しては気になっている自分がいることは確かである。自分以外の人に読んでもらうために、ブログという形を取って人の目に触れるところで書いているのだから。ただ、どうかなぁ。誰かに届けたい気持ちはどこかにあるが、評価をされて序列されてしまうのは違う気がするんだよなぁ。

評価ではないが価値というのは気になる。何らかの考えや言葉で伝えた思いや感情等の中に、ほんの一部分の何かが引っかかって、どこかの人の助けになったりしたらいいなぁとは思う。発した言葉が良くも悪くも刺激になる。受け取った人がどう思うか、考えるか。その後どうなるかは少し怖い気もするけれど、どんな人にも響いた言葉がこれからも生きてみようとする知恵みたいなものになるかもしれないのだ、と思うとやめられない。私の言葉がたとえどんなに下らなくて陳腐で言い尽くされた言葉だとしても、目にした相手にとって、他の人には成されなかったたった一回の目に触れた機会にもなる可能性があるのだ。そんな価値だ。

自分がとても素晴らしい!という言葉を発せてなくても、受け取った人が素晴らしい受け取り方をしてくれるということをどこかで信じている自分がいる。だから、いろんな人がいろんなことをたくさん言うというだけで、とても良いことだと思っている。私もその一人となっているってことがいいのだ。人は誰かにこうしろ、ああしろと言われたって、結局は自分の意思で動くのだから、気にせず本人の自由で生きているものだろう。私は下手な言葉をどんどん書き綴るのみ。

と、ここまで書いてきて、あ~また同じこと言っているなと思う。もう何回目か周回している?きっとそんなものだ。自分にぴったりの言葉を探して見つけられないからこそ「書いている」のだ。言いたいことが言葉になっていないから、出そう出そうと書くんだな。ありゃ~。結論何だか大体出てんじゃん。またつまらないことをダラダラ書いてしまった。それに、普段飲まない緑茶を朝から飲んだせいでなのか、しゃっくりが出て来た。あれ?止まった。

では今日はこの辺で。