人との出会いは一期一会、後腐れないなと思うと気が楽だよ

出会いというものは自分の興味と比例するのだろう。いつだって、必要な人が必要なときに現れるのだ。たぶんそれは、「こんな人がいてくれたらいいな」と明確に求めて探しているからこそ、ピタッとはまる人が目の前にいるのだとわかるのだろう。ぼんやりでも、なんとなくでも「求めている人」はちゃんと気が付く。出会えていなかったら、物理的に人と会う環境にいないか、自分で心を閉ざしているか、どちらかなんじゃないかなあと思う。

昨日は演奏家の友人が絵本を出版して初めてのトークイベントだったので出向いた。暑い。しかもちょっと遠い。暑さの疲れのせいなのか、冷えた電車内での感覚はあっという間だったのに、たった10分程度の駅からの暑い道のりが長い。しかも道が合っているのかどうか、定かでなかった。ものすごく簡単な道なのに、まるで初めて通ったような気になってしまう。何度も通りの名前を確認したが、自信がない。しかも頼れる地図を置き忘れた。というか、今日は大丈夫だろう、と何度も通った道なので甘く見ていた。大事なのは、その一本の道であり、簡単であるがゆえに間違えたら着かない。

こんなお店が通りにあったかなぁ、こんなに学校あったっけ?暑さもあって、日陰にも行きたい。以前通ったときは平日だったせいもあって、雰囲気が違っているのだろうと思っていたが、ちょっと心配になって来た。「全然違うのかもしれない。」もしかしたら、あっちか?と、衝動的に今までの進行方向を横切って信号を渡る。日陰の通りだ。けれど、どうも違う気がする。もう少し大きな通りに出たらわかるかもしれない。ダメだったら、この暑い中戻るしかないなぁ。ちゃんと地図くらい持って来いよ。最悪、携帯にイベント会場の電話番号が入っているかなぁと思ったが、自分はきっと入れていない。メールアドレスだけだ。ダメならやはり戻るしかなさそうだ。

そう思っていたら、何となく見覚えがある銀行や大きな通りが見えて来た。信号待ちしているところから、会場のビルらしきものが見えるぞ。ここからは名称は見えないが、近くまで行ったらわかるはずだ。ひとつ信号を渡ったせいで、余計なことをした。信号を二度渡る。ビルの名前が見えて来た。やった。見つけたぞ。店に着いた。

店内にあるカフェスペースで食事が出来たらいいなと思っていたのに、満席だ。仕方ないので本を見て過ごす。思ったより早く着いてしまったので、イベントが開催されるまで時間もあって、仕方ないから飲み物を買うため、近所のコンビニを探しに行く。普段なら大通りでさえ迷うところだが、店がある裏通りに進む。下手に大通りの信号を渡って、方向がわからなくなるより、道に沿ってぐるぐる回る方が安心だ。小さな本屋がたくさんある通りだ。大きなビルもある。少しだけ進むと、通りに沿って行列があった。どうやら美味しいお店があちこちにあるらしい。お昼の時間はとっくに過ぎているが、来るときにも他のところで並んでいる人を見た。みんな暑い中並ぶなんてすごいよな。きっと、そこの店目当てにわざわざ来ているのだろう。

自分はすぐ近くにあったコンビニに入って飲み物を買った。店から出たときに困らないよう、入る前に後ろ向きになって方向を確認してから入ったのに、出たらやっぱりわからなくなる。ひどい記憶力と方向感覚。これも暑さのせいだ、きっと。十字路で、こっちだ!と思って歩き出したら、その先に目印にしていたはずの他のコンビニがない。間違った。あれ?と思ってふと横を見たら、目印のコンビニが見える。ほんの数メートルなのに、見える見えないでこんなに差が出る。迷うときは迷うのだなぁ。危ない危ない。ひとまず難は脱した。

その後のイベントは滞りなく、終わった。このイベントを開くきっかけになった店長さんとも挨拶出来たし、トークをしている友人のちょっと不機嫌そうな表情も見て、普段流暢に話すのに言葉を選ぶ難しさを感じるような違う一面も見られたりしたので、楽しむことが出来た。それまでの裏話は友人から聞いていたので、楽しみ半分心配半分となっていたのだが、まずはイベントが終了してほっとしている。今回入場者が少なかったり、司会進行が微妙な感じもあった。初めては大変だが、次の機会を作って活かせればいいなと思った。次だよ、次。

イベント終了後は友人に「お茶飲んでるね」と告げて、先程のカフェスペースが空いていたので食事しながらサイン会を終える友人を待っていた。忙しい人だから、即帰宅するかもしれない。約束はしていない。すぐ会場を出て来たおかげで席は取れたがどんどん店は混む。今だけ一人で使うには広いテーブルを取ってしまった。肩身が狭い感じだが、友人が来る頃になると、他はもういっぱいだった。

「日本語の先生も一緒でイイ?」と友人がカフェに戻って来た。テーブルが広いが椅子がひとつ。ソファを詰めて座ってご一緒した。結婚を機に友人が来日した当初、外国の人たちも一緒に交流するような場で素敵だなと思って、自分から日本語を教えて欲しいと申し出た相手だったそうだ。友人の出る演奏会等でたぶんお顔は見たことがある。大きめの指輪等アクセサリーをたくさんつけていたが、自身で作っているとのこと。ご年齢はかなり上だと思うが、快活なご婦人だ。

何でも昔は美術の教師をしていたが、その頃休職してJICAで海外へ出向いていたらしい。その頃まだ1ドル350円位?とか言っていたから、海外に気軽に行ける時代じゃないし、今より恐らく治安も勝手も違う。ちょうど男性のみという勤務条件のところが削除されたばかりの頃だと言う。勤めていた学校の校長が直接教育委員会らしき組織と掛け合って、勤務先の休職が可能になったと言っていた。たぶん日本で初めての頃じゃないだろうか?

語学は英語、フランス語、スペイン語が出来るとのこと。なんでみんな周りはマルチリンガルが多いのだ~。私は日本語がうまくしゃべれないですから、と言うと盛り上がってしまった。日本語難しい。友人は日本語が難しいと言いながらも、綺麗な適切な日本語を使いたいと意欲的だ。私は中学生卒業程度の日本語を駆使して今も話しているよ、10年後にはこちらから「え?その言葉、難しい。教えて」って言うからと言うと、友人は一瞬考えていたが何を馬鹿なことをと言って笑っていた。言葉についてその後も盛り上がり、午後の楽しいひとときとなった。

出会いは自分が何かの答えを求めて彷徨うときに、出会って答えをもらっている。昨日もそうだったのだ。この先、自分は何が出来るのだろうと思っていた。漠然と何もないな、とも思っていた。JOCAの職員とも話をして、昨日のご婦人とも話をして、何かをやるときに「コレを使えたらいいな」という自分にある何かをまずは持っている自覚があることが必要だなと思った。昨日のご婦人はスペイン語を学んだ後に、スペイン語を使える仕事とか何かないかな?と探して、周りにも話をしていたからこそ、出会いがあり、繋がって行った話を聞いた。彼女とは自分は違うなぁということを、ここで改めて知る機会になったなあと思う。

何も、語学が出来なくても、自分はいいのだ。簡単な日本語で誰かと通じ合うことが出来る。全部全部無い、だからこれからも何もない、出会いも無いと興味を失ってしまっていては、出会いは自分の目に入って来ないし、目につかない。無いことも、有ることは表裏一体である。無いことによって縁もあるとさえ思っていれば、持っていないことが条件だという何かに出会うのだと思う。

自分は今でも何か持っているという自覚より、何もないなぁという感覚で生きている。だからこそ、見えるものが違うのだ。いろんな何かを持っている人とは違う視点を持っている。大金持ちじゃないしなぁ、体力無いしなぁ、やる気も知力も無いしなぁ…等々。無いものを並べられる。その分、自分には無いことを持っている人に興味を持って話を聞くことが出来る楽しみを持っている。いつでも素敵な誰かに興味を持てるのだ。そして、また新しい誰かに日々出会う。

長々書いてしまった。今の自分は人がいる場所に行くことで物理的な出会いを作っているし、心を閉ざしていない証拠に相手のことを興味を持って聞くことが出来ているってことだ。部屋に閉じこもっていたら誰にも会えないから、外に出る。出たら、会った人に挨拶する。挨拶出来なくても、通りすがりの人から道を尋ねられたり、何かしら声をかけられることもある。そのときに心を閉ざすか、閉ざさないかでその後も変わる。もし声をかけられなかったら、話しかけやすい雰囲気に自分がなっていないんじゃないかと見直してみる。ははは。当たり前だがイライラしているときは私の側に誰も寄って来ないよ。

暑いね~と目があった人に言える。きっと今なら共通項だ。では今日はこのへんで。