つらつらと今日はしゃべる。

しゃべり倒した。子ども向けのコンサート準備そして開催中も、その後の役所職員とボランティア仲間との懇親会も、消防署との講習会をやる打ち合わせも、立ち寄ったケーキ屋も、とにかく思ったことを話す。話すと言っても、こちらが話し続ける訳ではないが、相手が会話したいことを引き出しながら、興味を持って話す。まだ言葉の通じない小さな子ども相手にも身振り手振りと共に言葉をかける。今私がやれることは、もうこれしかない。

一日過ごして、楽しい疲れだった。嫌な疲れではない。自分を消耗している感じではないなあと思う。仕事を辞めてボランティアばかりしている身だ。何が仕事と違うのか。

今日仲間と雑談していて、継続して地域でボランティアをやれている人というのは、お金があって、時間があって、余裕がある人がやるものなのだな、という話が出て来た。そこにいたみんなは「こんなのやってられないよ!」と言う人たち。ちょっと無理している、という自覚がある人たちだ。地域で頼まれて、誰も出なくて、そのため断れなかった人。私からすると「それでもやるんだね」と思うのだが、それでもやる人たちは大体どんなことに対しても我慢してやっていて、いら立ちがあったり、自分にはもうこれ以上出来ないと人に言わず、耐えるんだな~、すごいな~と思ってしまう。

以前ならじゃあ辞めればいいのに、と即思ってしまっていたが、そういう生き方なんだなと思うようになった。耐えつつ、愚痴を仲間と話して、それでいいようだ。そうやってぼちぼちやって行く。私もきっとそういうときもあるんだろうと思うし、時間やお金等何らかの余裕がある一面も持っている。みんなそれぞれだなぁと今更だが思うようになった。何かをやるとき、気持ちも境遇も、みんな同じでなくていいんだ。だからこそ、この自分でやれることをやって行くものなのだなと思う。

何かをするときに、周りの人と同じような考えをしない自分がここにいて良いのだろうかと思っていた。どこにいても、どこまで行ってもどうしても場違いじゃないか。それって自分の居場所はどこ?という放浪の旅をずっとしているようなものである。でもきっと、そうじゃないのだ。違うのが当然なのだ。それなのに、どこかで他と違う考えの自分を他と同じようにしようと縛りつけて勝手に苦しみ、結局は他人の考えさえも同じようにならないか縛って認めていなかったのかもしれない。アーレー、な話だ。きつかっただろうに。

今は本当にみんながみんなそれぞれ似ているようで違うんだ、というのがよくわかって来たからか、誰一人同じ人はいないのだということを信じられるようになったからか、どこであっても望めば自分の居場所に出来る可能性があるのだと思うようになって来た。場違い感はあっても、解決しようと思えるというのかな。

誰かの能力の高さと同じでなきゃならないなんて、そんな訳ない。全員美男美女じゃなければならない、なんてこともない。考えていることがバラバラで、同じように見えて、同じような行動しているようで、全く違う人間たちの中の自分も、その一人でしかない。似て非なるモノの集合体のようなところで生きているんだなと思う。

自由だよなぁ。誰かが自分を認めたり、または認められなくても、少なくとも自分は自分であることを自分で認めたっていいのだ。別にね、自分を認めなくてもいいし。それ位、自由なところで生きているのだ。へへへ。

では今日はこのへんで。