条件さえ揃えば、いい体験って必ず出来るもんですかねぇ。カオスみたいなのあります?

今朝も雨の中ボランティアの会議があったので、出かけた。子どもたち向けのボランティア活動を支援する活動がこれから始まる。その際、担当者以外で他の大人も出て欲しいと思うので呼びかけると「たくさん大人がいると子どもが怖がる」から、大勢で行くなとストップがかかる。へ~。あれだけ「出てください!」と言っている、昔からいる人たちからそんな言葉が出るんだな。

私は違うと思う。大人がたくさんいると怖がる、ということで、大人がたくさんいる場にしないということは、その大人がたくさんいる場を体験するという機会を奪っていることになると思う。実際、いろんな大人がいるところに来た子どもたちは、驚きもあったが刺激もあって、初めての体験が出来たとの感想を聞いている。接する機会を大人が子どもへの配慮という名の過保護な調整をしてしまうことで、せっかくの体験する機会を奪われているなぁと思えてならない。残念だ。慣れて行く場所の初めての第一歩でいいんじゃないか?誰の胸に届くかわからないが、こちらの希望として体験した子どもたちの感想も伝えた上で協力を仰いだ。身近な仲間が二人すぐに、出るよ~と言ってくれた。今は理解してくれる人が少しいるだけでいい。これからだな、と思う。

矛盾しているよね、と蕎麦屋に寄って食べていたときに、理解してくれていた一人が言う。もっとやれ、参加しろと言って来るのに、実際人を集めるときには多くは要らないとか言うから、こっちのやる気がなくなるよ、と言う。その通りだ。これって、何だか行事を企画してこなすことばかりに感じて来る。自分にとって、それはつまらないんだよなぁ。

元々は子どもたちに福祉について考える機会の提供もあるが、年齢に関わらず昨今無くなって来た、人とのつながりを増やそうというもの。もはや違うのか?つながりを作ろう、というのは今までに付き合いのない人たちが集まり、お互いドキドキしながらも、よろしくねという一歩を踏み出す場作りを提供して行くことなんじゃないかと思う。その先、人と人がつながるかどうかは、その人個人の選択に委ねられている。イイな、楽しいな、また会いたい、来たいと思うこともあるかもしれないが、大変だな、難しいな、いやだなと思うこともある。全部が全部、いい体験になるなんて言わない。けれど、何らかの体験をするのだ。それがいいと思って活動を続けて行けたらいいなと思っているが、違うのかもなぁ。

書いていて、嫌なことを思い出した。以前の活動で、感じたことや体験した感想を模範的に述べている子どもを見て、自分は気持ち悪いなと思ったのだ。大人が喜びそうな言葉を並べて、作文を書いたり、将来の夢を語る子ども。私は突っついて「どうよ。」と度々本音を聞きたがった。突けば、ただただ夢中で大変だったとか疲れたとか、もうやりたくないな等々、そういう言葉が出て来る。

もちろん、人前で整えた言葉を話すのも大切だとは思う。それらも練習だと思う。ただ、そこにいる大人が希望し満足する言葉を求めていないだろうかと心配になり、大人に付き合ってくれる子どもたち、という印象が残ってしまったこともある。私の前で話す子どもっぽい姿と、他の大人の人の前で話す大人っぽい姿の切り替えを見ていて、実際のところは本当にわからないし、どちらの目線でも見た姿は同じことなのかもしれない。いい言葉にしても、悪い言葉にしても、あの場で引き出してしまったのは自分たち大人だということを意識してないとなぁ。どちらにしても、大人だけが喜び、満足していることになってるんじゃないかと思って怖くなってしまった。

どうせならいい言葉をもらった方が自分も気持ちいいのだけれど。この子たちはどこで本音を語るのだろうと思ってしまう。他人の顔色をうかがって駆け引きばかりが上手くなって行くのだろうなぁ。それはそれで辛くないのだろうか。心配しすぎか?

体験の機会でさえ、今はどこか評価の対象である。大人も子どもも誰かに見せるためのモノになっていたりするところもある。いい体験とは何ぞや?何でもいいから感じたり、思ったり、考えたり出来る時間になればいいんじゃないのかねぇ。こういうことを感じられたらいいな、という大人の想像や思惑を超えて、それぞれが違った体験になればいいなあと思ってしまうんだが。どうしても窮屈さを感じてしまう。感じることさえ、矯正されるみたいな。いやなんだよなぁ。

では今日はこのへんで。