世間の尺度という眼鏡をかけて自分を見ていたりするけれど、実際同じ眼鏡なんて一個も無いから無意味だね。

それでも動く、それが人生ってもんでしょ、っていう言葉が自分の口から出るなんて、思ってもみなかった。親からまたお金が足りないからと催促をされたので、銀行に行って下して届ける。なるべく午前中の涼しい時間にと思ったが、9時の段階ですでに暑い。着替えは持たず、水筒と帽子、手に二つの小さな保冷剤を持って出かける。帰りは卵パックを二つ持ち帰ることになる予定。

家に着いてチャイムを鳴らすとドアの鍵が開いている。ひどい。これで強盗まがいの人間が入って来たらどうすんだ。私が来ると思って開けておいたらしいが、これは絶対ダメだぞと伝えた。以前二人組の強盗が近所出たことがある。一人がチャイムを鳴らして、住んでいる人がインターホンで対応している間にもう一人が侵入し、脅すという方法で強盗するという事件が数年前にあったと聞いていたからだ。というか、親のところも出くわしている。そのときはちょっと目つきの悪い背の高い家族がもう一人家にいて、ドアを開けられたタイミングのところに出くわしたから、その二人はそそくさと逃げて行った。その二人組の強盗は捕まったらしいが、玄関に鍵をかけないでいる高齢者宅にはいろいろな人が勝手に入り込んで来やすいのだから、不用心過ぎて恐ろしい。何かあったら困るのは自分なのになぁ。

お金を届け、親が食べなかった卵2パックをリュックに詰める。そのとき言われたのだ。こんなに暑くて大変なのにここまで来るなんて…と言って来た。文章にするとまるで普通の労いの言葉なのだが、そうでもないのだ。良くて、親はただ驚いているだけ。「なぜ動けるの?いいね~、動ける人は。」という嫌味な感じなのだ。そんな相手に、それでも動く、それが人生ってもんでしょと口から出た。人生なんて大げさだ。動かない相手に嫌味を返したのだろうか。わからない。今日の自分は、そんなに大変かと言われたら、それほどでもなかった。汗をかいて体はびしょびょしょ、帽子を脱ぐとはちまきを巻いていたあとみたいに髪の毛が濡れてへこんでいたとしても、炎天下30分坂道を歩いても、今日は気力がある。めずらしいなぁ。

動いていることは生きていること、動けるってことは生きて行こうとしている自分がいることだ。もしかしたら、昨日のピアノのせいで、生きる気力が少し湧いたのだろうか。確かに、ちょっとしたことだけれど、やりたいなぁという気力の向きが定まっていることがいいのだろう。だからあんな言葉が出たのかもな。迷っている間はなかなか動こうともしないのだから。どこへ向いたか、だけで、後は動き出す。以前も書いたけれど、ロバ使いと同じだな。ちょっとやる気のある下り方向へ、動きやすい方向へ動き出すと、疲れて足の動かないロバは歩き出すのだ。ちょっとやる気のある方向へ動いているから、自分の中の他のことも動き出しているんじゃないだろうか。

何か言われて怒ったり納得が行かなかったりするほどには、私は大抵のことに興味がないのだ。興味があることだけに集中して、あとは以前より増して適当にやろうと思うようになった。熱意の無いことに対して、筋を通したり、ムキになる必要もない。頭を使ってあれこれ考える必要も、実はない。優しい気持ちであれこれ首を突っ込んだりはして来たけれど、全部自分を出して、言い換えるなら全力で私がやろうとしなくてもいいのだ。どっちつかずでいたところもある、「私がやるより他の人がやった方がいいのでは?」という気持ちが湧くものに関しては、それらに対してたぶん私の熱意も興味もないのだ。ならば、どうせ我がままを通したいのなら、自分だけのものにした方が良いなと思っている。表現とか創作とか自分が作るものが適しているだろうな。そういうものに自分の我を全開で通せばいいなと思う。

ピアノは一番身近かなぁ。発表する場もあるし。ありがたいことに私の先生は「どんな音楽を生み出したいか」に寄り添って、その表現を助けるテクニックを指導してくれている。表現したいものがもしかしたら自分の中にはないかも・・・と昔は怖かった時期もあったが、そんなことはないなぁ。世間が思っているものとは違うかもしれないけれど、きっと自分の中にある表現したい「ナントカ」はあるものなんだなぁと思えるようになった。結局自分が世間の尺度でものを見ていたから、ずっと自分の中が見えないまま、有るものも無いままだったのだと思う。

眠い眠い。では今日はこのへんで。