行動には少し制限がかかりますが、心は自由にのびのびして構いませんよ

家族が仕事の資格を取るための研修に出かけたので、急に家の中が静かになった。家族を見送るついでに駅まで歩き、好きなドーナツやコロネを買って来て、夕食のおかずと一緒に好きなドラマを見ながら食べた。何だか思ったことが急にいろいろスムーズに進むから、それはそれでツマラナイ。贅沢な奴なのだ。

ピアノだって、じっくり好きなだけ練習が出来てしまう。バッハの曲のようにとにかく鍵盤の中を触って音を出す。バッハ風に印象派の曲を弾く。雨が近いせいで湿気が増えて、ピアノの音がこもっている。重い気がした。鍵盤の反応はあるが戻りが鈍い。ちょうど区切りがついたところでやめてみた。友人から明日の予定のメールが来ている。二度ほど返信を書く。何も気にかからず邪魔するものがないので、すんなり書ける。あっという間だ。

人が他にいないというのはなんということだろう。さらさらと物事が流れて行き、留まることがない。どうせなら面倒くさかったボランティアの書類を書き上げてしまおうか。今ならすぐ書けてしまうんじゃないだろうか。他の人は仕事や家族の世話、家の用事やなんかで忙しい中こんなものを書いているのか。へ~すごい。けれど、しまってある所まで行くのが面倒になり、結局はやらない。自分のやる、やらないはたぶん忙しさとかは関係なかろうと思う。どちらかと言えば気が向くか、どうかだろう。まずは風呂に入ることにした。

たとえ、こんな一日を描いた文章を書いたところで、何になるのだ。という思いもきっと出て来るのが普通だ。だが、自分が書くことを決めて書いて、寝ることにしたのだから、と続けている。人が「こんな文章を書いていたって何になる・・・」と言うこともあるだろう。でも、それも余計なお世話だし、そう考えたり感じたりする人のことをこちらからとやかく言うのも余計なお世話だろう。人は自分の考えで生きているのだろうから、他人に対して何か言いたくなることも自由だろうし、本人から私の自由ですよ、と思うのも自由だと思っている。

話は逸れてしまうかもしれないが、意地悪な人はいる。悪意を持っている人というのもあるだろう。けれど、そんなココロを持っていることは仕方ないことだと思う。意地悪な人だとしても、意地悪しないならいいのだ。悪意を持っている人も、その悪意を行動にしないなら何にも問題ないのだ。殺意が芽生えた、なんて言葉もあるが、その殺意を何らかの形で実行してしまうことが問題なのであって、気持ちが芽生えちゃったら仕方がないわけで、その状態を知った自分がその後どうするかなのだと思う。嫌な思いが芽生えたら自分でそっと静かに摘む。手放す。それだけだ。ダメなら誰かに相談すればいい。

・・・などと自分にも思っている。何だかんだ、この時期嫌な気持ちがモヤモヤ~ということがありそうだ。天候も不順で、人の流れも変わり、ストレスが多くなる時期だ。ツマラナイツマラナイ・・・とお経を唱えるように頭をぐるぐるとしていたことがこの時期あったなぁ。考えること自体を止める、なんて無理だよなぁと思うのだけれど、結構ここを止めようと無駄な努力を試みる人が多い気がする。考えてしまう、思ってしまう、感じてしまう。それは仕方がないよなぁ。その嫌なモヤモヤ~を実際に形や行動にしなければそれでいいのだ。それなら何も起こらないのだから。

考えているそれ自体が嫌だ、というなら他に目を向ける時間を増やすことだ。自分でその考えに囚われそうになったら、その考えに集中しない状態を物理的に作っていくこと。とにかく、面白そうでなくても、気の向くところへ動いて行き、気の向くまま何かを続けてやってみたりする。最初のうちは考えてしまうけれど、目の前のことに夢中になったりする。忘れられなかったとしても、何かをやっているというだけで、その間は書いて字のごとく「気が紛れる」状態になるはずだ。

と、自分に向けて書いている。モヤモヤ~もツマラナイツマラナイ、意地悪や悪意等も、全く無い訳ではなく、自分の中に湧き出て来たり知らないうちに消えていたりしていて、存在しているものだ。幸せなことに、生じたものを「どうするか」を選べるのだ。どう生きたいかを軸にして、さあ次どうするかだ。たまに不自由に身を任せるというのもいいかもしれない。他の人の型にハマっていると不自由だけれどとりあえず動けて、ツマラナイと思っている暇がなさそうだ。仕事なんかするのがいいんじゃない?って人には言うこともあるけれど、でも自分はやっぱり今のような暮らしがいい。今のところ自由に忙しいしなぁ。これはたぶん自分にとっていい感じなのだろう。

では今日はこのへんで。