怒った人を目の前にして、違うことを自分は考えている。そんなもんです。

子どもたちの伸び伸びしたやる気いっぱいの姿に同調して、少し元気になる。小学生向けのボランティア活動が始まった。自分は大人の世界で疲れているのか?暑さのせいか。昨日は帰宅してやはりぐったりして寝ころんで、いつしかそのまま昼寝もしていた。好き勝手やって気を抜いているように見えても、自分の中ではほど遠い。窓を開けたまま昼寝すら気軽にはしていないなぁと、寝た後に思った。

何かにつけて、どこか決断が伴っている。ふらふら出かけることだって、「ふらふら出かけよう」と決めている。思いつきで動いていると思っていても、小さな小さな決断の積み重ねだ。しかもいちいち考えている。それは疲れるな~と思う。他人事みたいに書いているが、何かにつけて意識的に決断をしている自分がいると思うからだ。自分のことなのに、どこか客観視しながら生きている。とは言っても冴えない客観視。もっと冴える客観視ならもっと楽にいい動きが出来るはずなのだが、個人の程度はいろいろだ。そうか、だからいつも疲れるんだな。

感情的になって「相談してくれよ」と言って来た人がいたのだが、昨日は妙に自分は冷静になって周りの人を見るきっかけになった。言葉通りでただ怒っている、ということはないのだなぁ。言って来たその人は自分を除け者にしていると感じたのだろうと推測する。そうでなければ「○○の人だけじゃないんだ」「○○以外にも人はいる」という言葉の後ろに、「メソメソ」が隠れているように自分には感じなかっただろう。

簡単に言うと、自分たちばっかり仲良くしやがって、仲間に入れろよ、と言って来たようにしか見えなかった。少し可哀そうになってしまった。それに誰もが自分は精一杯やっている、だけど自信がなくなるものなのだろう。いつもその人はいろんな活動をやっていて、気が強いし自信満々に見えたが、そうでもないのだなぁ。そして会話をしていて、こちらがわからないという言葉を度々発すると、「自分が何もやっていないような気になるからやめて欲しい」と言われた。自信がなくなるんだと言う。

今更だが、ああ、だからやっているんだねと合点が行った。自分はこういうことに疎い。誰でも誰かに認めてもらいたいと思っているのだということ。少なからず同じことを思いながらボランティア活動をしているということだ。誰かの役に立ちたいとか、自分を認めてもらいたいとか。当然と言えば当然のことかもしれない。自分は自分に対してそのことを意識していなかったり、相手への理解が足りなかったり、まぁ、いろいろなのだが、単に自分が楽しいか楽しくないかを基準にやっているから、たまにそういう人の気持ちを垣間見てハッとする。どんな人でも常に自分と他人を比較して、認めてもらいたいと思うものなのだなぁと再確認する。だからこそ自分と他人の存在というものなのかな。

どこかで自分は活躍している素敵な人を見るときに、その人は他人と自身を比べるような承認欲求はないはずだ、と思っているのかもしれない。だが、比較などしない、などと思っているのが間違いなのだ。どんな人でもつい比較をして、自分の方が可愛がられていない、と思ったら嫌だと思うもので、すぐに不公平だと感じ、他の誰かに嫉妬なんか簡単にしてしまう。昨日はそのことを思い出させてもらって良かった。

ここまで書いて読んでみると、自分自身はいかに人を「理解」でとらえようとしているかがわかる。感情や気持ちを汲み取るというのをそのまま受け入れるのではなくて、理解という段階を踏む。怒りに対しての自分の反応としては単に驚き、その後なんでだ?と理解しようとする。まだ飽きもせず、きっと人に興味があるんだなぁと思う。

昨日「わからない」を連発した自分がいたが、やめて欲しいと言われても実際出来ないこともあるけれど、「わからない」なりの対応を少し出来ないかと考えてみた。全部について漠然としていてわからない、という状態は相手を突っぱねているように見えてしまい、確かに良くないなという反省もあって、出来る範囲で細かな本当に小さなわかっていることを整理して行こうと決めた。わからないを少しだけわかるにしよう。決めるとすっきりして楽もあり、この後疲れも出るが、きっとこういう生き方が自分なのだなぁ。

では今日はこのへんで。