良識というものの殻が落ちていたらとりあえず拾って被る

美術館二日目。前半は体力が持ったが、その後50分近い映像を立ったまま見たせいで、足が棒の様。それでも近所に住んでいる家族のところへ土産を届けたりして、かなり歩いた。頭はアートの刺激と体力の限界のような感じになっていて、今日はモノを考える余地なし。野生のまま書いている気分だ。

アートに触れて、改めて思ったことがある。この世界に自分が想定してしまう秩序とか常識とか、思い込みのような枠組みの外にアートはあるものなのだろうなと。常に自分が囚われてしまう枠。生まれては壊し、また新しいものが生れて壊され続ける。一定のものではなくて、また枠と思われるものでもなくて、変化し続けて見えるような見えないような。たぶんそこに在ると思った瞬間にはもうすでに囚われている存在になり、無いままでいるもの。私はそんなふうに思った。共感なんてないけれど、心が勝手に震えるとか。ただうわっとするようなものだなぁと。まあ、言葉で書いてしまったら、とても陳腐な感じで。申し訳ない。

見ていて思い出したことがある。大学生の頃、友人の恋人が芸術系の大学に通う学生だったのだが、その人の卒業制作を友人はもらったと言って見せてくれた。そのときは全くと言っていいほど理解が出来なかったし、友人と二人で「何だコレ?」と言っていた。だが、今になってそのことを思い出して吹き出している。理解が簡単に出来るものなんて、ないのだろうし、それすら意味の無いことだったなあと。表現とは、なんてわからないけれど、あの時友人と二人でその恋人の作品を見ながら「ここの部分が気になるから取り除きたい」とか言っていたことが恥ずかしい。その取り除きたい部分がその恋人が一番熱心につけないとだめだと言っていた部分だったのだが、そりゃそうだよなと今は思う。気になる部分はその人の表現の中で一番大事なところだったのだ。取り除いて大勢の人が納得したり理解出来る物を作ることは、作者にとって全く意味のないものになってしまうのだから。

今だって縛られた価値観の中でものを見ている自分を日々感じている。たまに自分を変り者だな~と思っても、それは世間の良識の範囲の変り者で居続けていると思う。ごく普通の大したことない人間だからこそ、周りから社会から受け入れられて生活し続けていられるのだ。知らず知らずに世に合わせた隠れ蓑をまとっていることを自分ではふとしたときにある程度気が付くのだ。とげとげに尖っている部分をほとんど出したりはしないで、人の世を生きている。だからこそ、表現とかアートの世界の中でのとげとげに触れて、自分も人の世ではないところにだけ表現しておこう、と思っている身である。これからどのくらい表現していくのだろうか。言葉を綴るのは表現か?だとしたら今日はひとこと書いておく。人は「役に立つこと」に囚われやすい。書いていて、役に立つことを書いてしまった気になる。やっぱダメな奴だ。アートからほど遠い。

では今日はこのへんで。