もしそばにいたのなら、きっと私に毛布をかけてくれるのはあなただ。

子ども食堂と呼ばれるものを今春から立ち上げて活動して行くことになった。やりたいと言っていた二人が周りを巻き込みながら、5年ほどかけて準備して来たものが少し形になる。まだ始動したばかり。補助金等を貰いながら活動をすることになったが、そうすると制約もあるようだ。寄付100%で出来るなら恐らくいろんな制約から自由にやれることが増えるだろうにと思う場面もあり、資金繰りというのは、なかなか難しいものなのだなぁと思う。それでも今後活動が少しずつ進んで行けば、関わる人も増えて、それこそ変わって行けるんじゃないかと思う。人の目に触れて、いろんな意見も出て来るだろう。私はほんの少し、自分の出来る範囲のことで関わっていくつもりだ。活動のために集まった中では一番若いのが私だったが、これからより若い人も参加してもらって、運営や広報の工夫についても、動ける新しい知恵や力をもらえたらいいなと思う。全部ひとりで背負わない、やらないこと。それが大事だなと思う。

今いるメンバーはあと10年ほど活動出来たらいいなと思っているようだが、引き継いで行く人がいなくても私はいい気もしている。もしかしたら、この形での活動よりももっといい形が生まれるかもしれないので、存続出来るかは自然に任せたい気持ちもあるのだ。10年経てば、求められる社会の「必要性」みたいなものが変わって行く。私の年代より上の人たちが欲しているものが、これからの世代に受け継がれたときに欲しているものが同じものとは限らないのだ。似たような、別のものに変わっているかもしれない。そうなったら、同じ形で続けているのは困難になるだろうし、古い大人が昔の思いにしがみついているだけになってしまうかもしれない。今の感じでやれる間、私も参加して、違ったものの見方が出て来たらやめることも考える。無理のない自然なものが出来たらと思う。

今まで何らかの居場所作りのボランティアに関わって、その居場所に集まる人と話をしたり、見て来ていて、最近思うことがある。人と一緒にいたいと思ったとき、今すぐに自分にとって都合の良い、物わかりの良い相手や誰かを求めてばかりいるんじゃないかなぁと。今すぐに自分にピッタリな人を求む!みたいな感じで周りの人を見ていて、合わなければハイさよなら、ということをやっているように見受けられた。それは別にいいと思う。実際に自分もよくやっていた。けれど私と違うのは、合うかもしれない人の数をまずたくさん試すことがないような気がするのだ。試しもしないで人を知るのはありえない。まずは多くの人数を試してみたらいいのにと思う。機会が少ないのだよなぁ。数打てば当たることもあるよなと思うのだ。

次に、深く一人の人に時間もかけてみる。一人に出会ったら、お互いの間に居心地のいい空間をどう作るかに時間をかけて少しずつ歩み寄る。度々会って、そうやって慣れて行って、お互い許せるところや嫌なところを知りながら、時間をこれまたかけて心地いい距離感をつかみ取っていくものかなと思う。そうすると、いつだってお互いにちょうど良い「関係」が出来上がる。すぐには出来上がらないが、「自分に都合の良い物わかりのいい関係」の人が周りに増える気がするのだ。

結局、いい人がいたり、ピッタリな人、自分にとって完璧な人がいるわけではなくて、本当は自分と相手との間に「いい関係」を作れるかどうかなのだと私は思うのだ。相手の悪い面を自分が見ないで済む行動をこちらがやって、自分が得たい相手の良い面だけを引き出して付き合えたなら、その人は自分にとって最高の相手となる。もちろんこれが難しいのだろう。けれど、「いい人」を探してばかりいて、案外このことに気が付いていない人も多い気がするのだ。

ここまで書いてきて、もう眠い。私の言いたいことを半分だけでも聞いてくれたのなら、きっといい関係を築ける相手になってくれている。ありがとう。また今日も他力本願で生きてしまった。半分以上あなたが頼りだ。明日は私が努力してみる。

では今日はこのへんで。