考えていたことが現実になった!と思ったら夢でした、というのがありそうな朝を迎えるのはもうやめだ。

家にこもっていたが、桜がどうも気になって外に散歩に行った。今日桜が咲ききって、満開のタイミングを逃してしまうかもと思って、いてもたってもいられない。昨日は急いで外に出て行った。

家の中にいてももう寒くはない。外に出ると陽気が良かった。一番見たかった場所は少し遠回りして歩いて行く途中にある。その道の途中にも桜は咲いていて、見ながら歩く。かなり行ったり来たり、うろうろする。たまに蕾を探しては立ち止まり、本当に花を見に来ている自分に気が付く。一人で空と花を見上げていた。まだ満開ではなかった。ほっとする。明日もその次も、ただ見に来ればいいことだ。満開の桜に間に合う自分、というだけなのになぁ。桜はやはり好きだけではなく、今ここにある季節を感じたいための大事なものとなっているのだろう。

私の親の一人は病気で亡くなったが、そのとき「次の桜を見ることは出来ない」という言葉で命の長さを計った。病気なのだとわかったときには余命は一か月ほどだと医者から伝えられ、そのとき、もう一緒に桜を見ることは出来ないのだ、と親も私も一度桜を諦めた。実際にはもう少し長く生きられて、最後の桜を一度だけ一緒に見ることが出来た。でもまた、そのとき同じように「次の桜を見ることは出来ない」と思ったことを覚えている。季節を感じさせる大事なものを人は持っていて、その季節が来るたびに否応なしに思い出す記憶になるのだなぁ。

自分だって、あと何回満開の桜を見ることになるだろう。いつも人生の長さをそういう数え方でしてしまう。そういう人も他にはいるんじゃないだろうか。桜に限らず、一年に一回の何かのイベント、誕生日、記念日等も、どんなに大事な人とたくさん過ごしたいと思っても、そのたくさんはせいぜい100回あるかないかだ。当たり前にやって来ると思えて、漠然と「たくさん」だと思えているときはまだ気が付かない幸せ。これが最後の一回だと誰も思っていない。病気で余命を告げられたからこそ、人生の桜はこれで最後だ~と思って親もちょっと無理して近くの公園まで出かけたあの日。私が親と過ごしたあの桜の季節、最後の一回だと思っていながら、最後にはしたくないと思っていた。矛盾する気持ちで揺れ動いていたように思う。どうあがいても、親の寿命は尽きて、それが最後になってしまった。あがいてもどんな気持ちでいてもどんな努力しても、人生の最期は来るんだよね~。

今日の桜を見たい気持ちは今日全うさせよう。死を恐れて動いているわけでもないけれど、最後かもな~と思うとやらない選択が無くなる。ただやりたい気持ちだけがそこに残り、ある。余計なことは考えない。そのときそのとき、生れ出た自分の思いに忠実に動けて行く。動けるってのがやっぱりいい。最後かも?と思って、いや違うはずだ、と思い直すこともあるが、こればっかりは誰も予測出来ないからなぁ。やっちゃおう。

ところで、昨日から朝早起きになってしまい、今朝も5時半に起きてしまった。ここ1ヶ月半位は、ブログを書くために今まで寝るのが遅い時間になっていたが、これからは早く寝て朝書くのもいいなと思っている。夜に頭を動かして、パソコンの明るい光を見ると意識がギラギラしてしまうので、やめようと思う。どうせなら夜は何も考えたりしないで死んだように休息を取る方がいいのだ。それこそ、眠ったらもう目が覚めないかもしれない、という気持ちで夜は眠れるように。

朝から「今日は最後の一日だ~」と自分全開の方がやれることも増える。夜はどうしてもやりたいことを抑えることになってしまう。活動で単に音も出ることもあるし、外を歩き回るのも危険だし、歓喜の声を出しながら動いてしまって近所迷惑だし、夜中うろうろして職質かけられるかもしれないし・・・面倒この上ない。ほとんど声を出しながらうろうろ動く前提だ。

そういうことも含めてやるのを躊躇する夜と違い、朝は自分の気持ちを抑えないで済むだけでストレスもない。やりたいことを我慢するストレスって最悪だ。そんな気持ちを抱えて眠ろうとするなんて、寝つきの悪い自分にとってさらに効率が悪過ぎだ。ということで、朝から書くことにした。しかも今日のやることリストのひとつはこれで終わる。やった~。気が向いたら一日に何回も、また書くかもしれないが。

でも今はこのへんで。