残念ですがお見せ出来ないものがあります

家族以外の人といる一日。朝9時から急いでボランティアに出かける。月に一度の地域の高齢者が集まる食事会の開催だ。昨日もそのための買い物に出かけているから、活動する仲間と二日も続けて顔を合わせる。イヤな気分でその集まりに出かけることが今までないから、ありがたい。年齢も様々、基本的にボランティア精神も多めの気配り上手、お話上手の優しい人たちの集まりだ。気遣いを相手に知られずにする人たちだから、私と接して「この人は仕方ないネ」と軽く肩をすくめられていることに自分だけが気が付いていないかもしれないが、そうだとしても自分は何も力まなくて済んでいる。ホッとするひとときである。笑いながら活動出来て、こちらの不器用でさえもなごみの一部となる人とのつながりを与えてもらっている。

参加者なのか違いがわからないような後期高齢者になっているはずの人も、中心になって活動を手伝ってくれている。いつも何か作るのが好きで、おしゃべりが好きで、料理好きでもある。こういう好きなことがたくさんある人と付き合うのは、好きなことを喜んで、ただ受け取って喜ぶだけで、お互いに幸せになれるからとてもラクである。今日も手作りの美味しいぬか漬けをもらった。片付け終了後の時間に、緑茶を飲みながら次回の食事会の打ち合わせをしているときは、ただ食べているだけの自分。それでも輪を保つのに役立つ協力者になっているらしい。とてもありがたい関係である。

自分が住んでいる街は高齢者が多い。今日食事会に参加してくれた97歳のご婦人は朗読を披露してくれた。目も耳も歯も問題なく、長生きしている。私なんかよりもずっと通る声でハキハキ話している。腹筋も違うのだろう。彼女は「親から長寿遺伝子をもらっただけ」と笑っていたが、顔の筋肉が何も衰えていない様子。顔のしわがないのはきっとそのせいだろう。健康で動けて話せて学ぶ意思もあって。一体このままどこへ行く~。

正直なところ、想像もつかない。今日読んで下さった詩は、90代で詩人になった人の作品だった。同年代が書かれたものを読むというのは、その年齢まで生きてみないと感じないこともあるのだろうから、それこそ一握りの人しか味わえないことを彼女は手にしていることになる。知りたいなら生きねば!である。私自身も生きてその境地に立ってみないと、と思うがそれは途方もない時間の彼方にあるのだ。恐るべし。生きて来た時間というのは素晴らしい限りだ。長いこと生きているという高齢者はそれだけで尊い存在だなぁと思う。

私は若いときはどちらかというと自分から高齢者のところへ望んで会いに行くなんてことはなかった。なぜお年寄りと過ごせるんだ?と不思議に思いながら介護職に就こうとする友人を見ていたこともある。必要以上のことはなるべく自分は避けて過ごしていたからなのか、長い間よくわからなかった。今は一緒に過ごして自分の感覚が変わってきたように思う。ここ暫く一緒に度々過ごして来たからこそ、長く生きて来たことそのものがすごいことだと肌で感じるようになって来たのだろう。頭で考えてわかったと思っている「良さ」などは取り払ってしまって、単にスゴイコトダ、真似出来ないと思わせられている。今は少しでも長くそばで関わっていられたらなぁと思う。

次回の食事会の打ち合わせ後、急いで歌の練習に行った。多少疲れもあったが、まだ立って歌えそうだ。歌の仲間や先生が先に練習場に来ていた。なんと、今日は久しぶりに仲間が全員集まって練習が出来た。本当に久しぶりだ。無理を押してでも練習に来て良かった。自分の周りを包み込む違う音程の響きが楽しい。人数が揃うと音の幅の広がりを味わえる。たまに外れる音が聞こえて来て、テンポも狂ってしまうときもあるけれど、みんなで「やってしまったかもしれない」などと言いながら何度でも同じフレーズを繰り返して練習する。熱も入る。楽譜ももう見なくても暗譜出来ていて、あとはどう楽しむかだ。一人だけで上手くなりたいんじゃない。仲間とこうやって今も歌える幸せをこれからも続けて行くのだ。いつかは終わりが来るだろうけれど、今はこの幸せを普通の日々だと思って手にしている。ありがたいものだ。

頭の中で「わかっている」と思っているのではなく、感じているのだなあと思うことが多くなった。感じたいと思ったから感じ始めたのかもしれない。人を含めて何かを理解する努力ばかりしている人生を過ごして来たが、最近では感じる楽しさを味わうことに変わって来た。感じることというのは誰にとっても自分自身一人だけの楽しみである。だから最近楽しいことが多いのだな~。何か体の真ん中にあったかいものがほわ~っと丸く存在しているのを感じる。きっとこれが私の幸せの形かもしれない。お見せ出来ないのが残念だ。

では今日はこのへんで。