ムショク透明な日々、未来はたぶん真っ白い。

失業とか退職とか、仕事を辞めると頭の中で稼ぐことというのを未来を見据えて考える必要に迫られて行くような気がするが、今回仕事を辞めてから「働く」「稼ぐ」とかが遠のいてばかりだ。無職という立場でありながら仕事をするぞということについては頭の中の未来プランは真っ白で、未だに仕事をしようという意識は湧かない。無力で、とか気力がないから仕事をしたくないというより、ほぼこの今の生活で満足しているからだ。

この間生き延びたぞ、ということもあって、やっぱり未来は不確定だから未来を見据えて何かをするってことに賭ける気持ちにならない。今がとても大事だ。そういや、昔未来が見える~みたいな人のところへ友人に連れて行かれて、その人から「とても刹那的に生きている」と言われたことがある。大抵のどんな人もある程度短い期間を見据えて、例えば1年とか半年とかの未来を見て生きていると言われるが、私の場合はもっともっと短いと言われたのだ。そのときはそんなに気にしていなかったが、今になってきっとそうだよな~と思う。一週間先の未来でさえ、結構何が起こるかわからないなあと思っているのだ。

だからと言って、怯えているわけではなく、面白がっているわけなんだが、それはどうせなら悲観的より楽観的に考えて生きた方が良いなと思っているからだ。悲観的に物事をとらえ過ぎても、ちっとも良いことが無い。良いことがあるとするなら、リスク管理だろう。自分が何か不安になって心配だらけのときは、とにかくここぞとばかりに何か今出来ることが無いか探す。まあ、大体探さなくても勝手に頭に浮かんで気が付くことが多いんだが。その思い浮かんだことについての「準備」をやりまくることにしている。途中で結果として五分五分ならやっても意味ないじゃないか?と馬鹿馬鹿しくなる時もあるし、動いて疲れ果てて未来への心配大会終了となることもある。

心配だったり不安だったりすること。これはいつまでも自分から望んで抱え続けることが出来ちゃうものなんだと気が付いたのは、自分ではどうにもならないんだ、という出来事を体験してからだ。体験を重ねて、だんだんと考えが変わった気がする。自分で変えられる、どうにかなるはずだ、上手く行くはずだとどこかで思っているからこそ、心配になったり不安になったりするのだ。どうにもならない、とハッキリと思えることには不安も心配も起こらない。

それが出来ないようなときは、家族にも言われるが「諦めが悪いんだね」ってことだろう。どこかその事象を受け入れないで不安や心配を抱いて、自分から苦しむことを選んでいるのだと思う。

だからまぁ、往生際の悪い自分に気が付いて、それでも不安や心配に取り込まれているときは、「やるだけやるぞ」と心配や不安の構成要素にさらに向かって行くことにしている。そうやってたくさん本気でジタバタする。心配事に対応しているのが面倒くさい、とちゃんと思うまでやるのだ。そうすると諦めもつくんだよなぁ。ここまでやってダメならダメだよなと。

なんか、こんなん書いて、伝わるんだろうか。楽観的で未来空っぽで真っ白です。それが今の自分だ。無職でいいんで~す。未来に就職をしようとか思っていなくて、このまま過ごしていたいもんだと本気で思っている。だから、この生活をしていくためにジタバタしている。外で継続的に働くということに向いていないし、そちらもすっかり諦めた。だけれど何かしら動くというのは出来る。別にそれが炊事でもブログを書くことでも、なんでもいいのだ。自分を喜ばせる毎日を作っていくことを諦めたくない。外で働いていたとき、それがうまく出来ていなかった分、今やろうと思っていて、やっている。お金を稼ぐのは二の次なんだよな。

では今日はこのへんで。