昨日と今日と、自分の記憶の辻褄など合うものなのだろうか?やんわりと自分の核のようなものに対してお伺いを立てて、「きっとこうだったであろう」と思うような記憶を回収して今日もまた生きているというような感じである。朝起きると今日が何の日だったか、予定を思い出し、いや思い出さなかったりで、一日が始まる。目覚ましタイマーをかけてはいるが、鳴らしているというだけで、今日は一体何をしなきゃいけない日かまでは教えてはくれない。日々目覚ましタイマーがサイレンのように鳴り響きながら、今日の予定を連呼してくれたらいいのに。あ?そういう便利でありながら嫌な物も、すでにこの世にはありそうだが。
昨夜から一緒に住む家族が不在である。花火に誘われたらしく、その友人の住む街まで出かけて泊って来るとのことだった。暫く一人で過ごすことがなかったので、なぜかワクワクしてしまった。一人暮らしを経験すると、どうしたってその気楽さがある。何事も誰にも指図されず、気を遣わず思う存分自分のペースで出来る。かと言って、今までの一人暮らしと大きく何か変更があった訳じゃないが、それなりに食事のタイミングも自分の腹時計じゃなくて相手の様子も気にするし、一人で集中したいことなどがあったときには相手に今後の予定を聞いたりするためにすぐには取りかかれないことはあった。家族とはいえど、立派な一人の人間。会話して、ほんの少しのお互いの理解があった方がいいなと思う。
考えてみると、生きていて生活をしていると自分以外というものに対して、何かしら気を遣って生きているものなのだな。例え山奥の森の中で一人で暮らしていたって、どんなに自給自足の生活をしていたって、人間相手だけではなく周りのすべてのものに対して自分の生活とのズレを知り、調整して、調和して生きているものだ。譲り合うこともあるだろうし、こちらが受け入れるものだったりもする。雨が降るということだって、ほとんどは自然のその様子を捻じ曲げて行くことなんか出来なくて、自分の方がどうにか避けたり、利用したり、自分に都合よく受け入れる方法を考えるだろう。そう、自分以外に気を遣うというのは、雨に濡れたくなかったら傘を差すことや家屋に入ることのようなもので、大掛かりなことで言ったら雨が降らないようにどうしたらいいかと研究して、あっちで雨を降らして、こちらには雨が降らないようにすることなのだろうと思う。まぁ、相手を知ることが必要なんだな。プラス、自分が「雨に濡れたくない」ということを知ることでもある。何に対してもお互いどうなんだろう?ということを常に微調整しながら生きている。
だからこそ、自分はどう思うのかどう感じるのかを知っておくことはとても大切だ。せめて周りからどう扱われたいかを知っておく。自分がどういう状態だったら安泰なのか嫌じゃないのか。知って、対応して、ひとつ解決したと思っても、新たなことは湧いて出て来る。まぁ、生きているというのはその繰り返しだろう。周りの変化で嫌になってしまうこともあるし、自分自身だって変化してしまうから、また嫌になってしまうことも大いにある。自分は大体コレである。大概のことはつまらなくなって、嫌になる。そのままにしておくと窮屈さが増すので、嫌なことを嫌だと言うことで、自分も周りも変化をして行く。嫌だと言える自分がいるから、そういう自分の出来ることをただやるのみだ。他の人だったらもっといい方法があったりするかもしれないけれど、自分はこれが一番ラクで物事が早く解決することを知っている。だからバカの一つ覚えと笑われても、まず最初に使う。他の人はやらない手段だとしても、自分にはそれしか出来ないであろう「ひとつしかない手段」なら、使うよな。
でもね、そのためにも自分が本当に嫌なのかは知っておく。だから、結構時間をかけて悩むのだ。思ったことをすぐに言う人だと思われている一面もあるけれど、実のところそうではなくて、ずっと長い時間「自分はどうなのだろうか」ということを考えていることが多い。言葉が出たときには自分の中でもう覆らない。当然だろうと思う。その言葉の裏付けが理屈でどうこうというよりも、いろんな場面を一通り、いや何度も繰り返して出た言葉だから、いつだって破裂して飛び出して行くように、満を期して言葉が出て行くのだ。別に何かの気持ちを溜め込んでいる訳ではないのだけれどネ。あれぇ?溜め込んでいるということになる?どっちでもいいか。
ああ、今日もだらだら書いてしまった。一人時間があるからだな。今日も思考の垂れ流し。ではまた。今日はこのへんで。