こんな日もある

見たいものがなくなったときに、宇宙に浮かぶ衛星から映し出した地球の映像を度々見ている。あの宇宙と地球の隙間がとてもいいんだよ。色が美しく、見ていて飽きない。海ばっかりとか雲ばっかりとか、そういうときもあるけれど、そのカメラの下の地球っていう球体の星の上に自分がどこかで息をしているのかと思うと驚きだ。目の前の世界と言ったら自分の小さな部屋の中で、夜なら灯りの中に映し出される自分の手足や体の中心などの自分で見える範囲の自分の体を見ていて、その周りを囲むように家具とか部屋の飾り、自分の家族を写した写真等が目に映るだけなのに。地球にいるって言ったって、画面の中に大きく広がった青の世界や土の色、白い雲の大きな渦や覆いかぶさるように広く繋がっている様子なんかは全然無くて、目に入らないのになぁ。結局見えているそばの世界や見える範囲の知覚出来るものだけで生きていて、あんなに美しいものの一部として生きているなんて想像もつかない。けれど、何かに騙されていない限り実際は自分が置かれている場所はとても美しいところで、そこで生きているんだなと思うと、感慨深い。恐ろしいくらい素敵なところに誰もが生きているんだなぁ。すごいな~。

まあ、そうやって、たまに俯瞰からものを見ることが出来るような時代とか世界になったにもかかわらず、たぶん大昔から人の生活は変わっていないのだろうなぁと想像している。自分から俯瞰してみようとしない限りまずは見えないものだし、見たところで感じ方が違えばきっと何も思わないだろうし。大昔の人が今の時代にタイムマシンに乗って来ちゃったら、何を言うのだろう。あっ、まず、信じないかもしれないか。大体タイムマシンに乗る、という行為が出来るとは思えないしなぁ。(きっと誘われても私も乗らないだろう。)乗ったところで目の前で起こっていることを「信じられない」だろうから。良くて、こういう世界もあったら面白いな、とは思ってくれるだろうけれど、こんなのペテンだって思ってしまうよ。今、自分がこの時代に生きていたって、目の前の宇宙の映像そのものが信じ難いのだから。本当だよ、って言われてもね~。

まぁ、結局誰もがいつの時代も自分の足とか手の先を見て、自分が動いているなあとか、ここにあるとか、顔の鼻の影とかまつ毛の先に出来た光のプリズムなんかを視界に入れて邪魔だな~とか思いながら、自分がものを見ているんだと思って生きているのかなと思う。そして、大半は身の回りにあるすぐそばの自分以外のものを見ている。そして重要視している気がする。最近ではココロの中なんて見えるわけないのに見ようとしていたりする。何を使って私は私を見ているのだろう?言葉は文字にして行くと見えて来る気になるわけだが。モヤモヤした気持ちとか言葉が上手く当てはまらないものに対して、どうやって見ているのだろう。感じるのか?いや~、さっぱりわからないね。

わからないよなぁ。この世界は。宇宙だって訳の分からないもので出来ていると知ったのは、宇宙飛行士が書いた本を読んだときだった。結局わかっていないことがたくさんあるんだということを知ったときに、それまで躍起になって知ろうとしていたのに、情報や知識を得る興味が途端に失せた。知ることを自分に課しているような生き方をしていたから、全部を知ろうとしても、わかった気になるだけなのだということを自分で認めたのかもな。人として知ることは出来ても神のように知り尽くすことなんて、出来やしないのだ。

どこかで全部知らないと嫌だ、と思っていたところがあった。全部知ることが出来ないなら初めから知らない方が良いみたいなことも感じていた。けれど、いろんな宇宙のことを知っているはずの宇宙飛行士ですら知ることが出来ていないことがほとんどで、人はすべてを知り尽くすことなど出来ないのだということを知って、とても気が楽になったんだよなぁ。全部じゃなくて、知るのは自分の好きなだけでもいいし、わからなくてもいいのだなと自由になった気がした。そんな人はあまりいないかもしれないけれど。

自分が何も知らないということを自分は知っている、というのは謙虚でもなんでもなく、そういうもんだよなぁ。自分の手の先を見つめている自分がいて、その瞬間の自分を見つめることは出来ないんだよ。一応自分は目は二つ、どう足掻いても、目の前に開かれている世界はどうかなぁ、ってくらい狭い世界の中で暮らしていることに変わりない。どうせならそれを大事に、大事にだな。目の前の世界も案外面白く、美しい色の世界が広がっている。手の届く範囲だって、あの真っ暗な宇宙の中の美しく輝く星の一部分で、その小さな細部に存在して私は生きているのだ。へへへ、いいだろ~。

今日はこのへんで。