家のすぐ近くの木が切られている。すごい音がしているなと思っていたら、いつも鳥がたくさん止まって騒いでいる大きな木が切られていた。長く伸びた枝を少しずつ切り取る人たち。重機を使って他の木もすでに切り取っていて、周りを掘り起こしている様子。今まで夕方に台所の窓から外を覗くと、夕闇が近づく空と枝の影が重なって、美しい影絵のよう見えた風景が無くなってしまった。季節が移り変わるごとに葉を茂らせ、いろんな鳥が止まっていた木。その姿にいつも十分に楽しませてもらったと思う。
住宅が密集しているところに畑と空地があったから、持ち主が手入れしながら維持し続けることが出来なくなり売りに出したのだろうか。木があると小動物が集まって来ていたし、枝が伸びてたくさん葉を落としていたから、もしかしたらご近所から苦情も出たのかもしれないな。
切る作業の音がうるさく響いている間、ポカホンタスのアニメで使われた音楽が頭の中を流れる。切ってしまったら、もうわからないよなぁ。その木が伸びて行く姿も誰も想像しなくなる。もう無くなるのだ。寂しく感じる。でも、わがままだよなぁ。自分自身だって、ずっと変わらないでいて欲しいと言われたって、それは無理であるのに。
ずっと変わり続けて、何が残って行くのだろう。自分にとって大事なものは大事だからと言って、残せるものなのだろうか。あの一本の木でさえ、自分以外の誰かが「切ることが大事」だと言って簡単に切ってしまうのだから、残せていないな。本当に大事だったら、残したかったのなら、残して欲しいという自分の願望を持ち主に伝えておけば良かったかもしれない。あの木の素晴らしさを語っていたら良かったかもしれない。
かもしれない、と言っている今の自分は、何もしないで見ていることを楽しんでいただけである。残念だね、寂しいねと思って切られる木の姿を今も部屋から見ているだけである。本当に何もしていない。最後まで見ていただけである。
少し前のピアノの発表会の動画を送った友人からメールが朝届いた。真夜中にどうやら見たらしい。動画とかに残っているのは、あのときの演奏だ。今の自分に同じものが残っているかと言えば、同じものなどもう無いのだ。けして、自分の演奏力の再現性の技術が無いとか、そういうことではない。音楽はその一瞬だけ美しく響いて、やがて消えてしまうものである。
物なら、変化が急じゃなくてゆっくりで、音よりは長い時間取っておくことが出来るのに。同じような演奏は出来ても、同じ演奏は出来ない。音楽なんて、なんて儚いものに常に自分は熱中して練習しているのだろう。努力しても努力しても、日々鳴った音は消えて行くだけなのだ。留まることを知らない。自分の体の中でほんの少しその様相を覚えているという感じで、たくさんの音がピアノを弾く目の前から去って行っているのだ。
身の回りでたくさんのものが消えて行くか、変化して行く。いつかは無くなり、変化するのだ。それが当たり前である。無くなってしまうことを怖がることは無いのだなぁと思える。世の中にあるものは、消えて行くもので、ただそういうものなのだから。嫌になったって消えて行くし、変化する。
じゃあ、どうするのかだって?自分自身も留まらず、ずっと変化し続けるのだ。目に映るものは出会った瞬間に去って行く。耳に届く音なんかは、少し前の誰かの動作で作られたもので、もう発端の場所にはすでに何も無い。星が瞬いているときと同じなのだろうなぁ。もうそこには無い星が在るときに光った光だけが、自分のところに届くだけのことだろう。すごいね。それと同じみたいだ。
振り返って見たら、昨日まで隣の屋根を突き抜けて顔を出していた木の姿がもう無いことに気が付いた。明日は何を失っているのだろう。これからも今までの「素敵だ」と思ったものが消えて行くんだ。悲観的ではなく、今素敵と思える瞬間が良いんだなぁ。だからこそ、美しく尊く、人生はキラキラなのだろうな。しかも、消えて行ったものにありがとうと感謝する気持ちになる。へぇ~。昔、大人が自分に言っていたようなことを感じるようになるんだなぁ。ふははは。こんなふうに感じるようになるんだ。変われば変わるものだ。
無くなっても無くなっても、生れて来る。有ることは無い、というのが同じことだと感じている。自分の価値観がそうなったというだけなのだが。もう無いけれどちゃんと有ったことを知っている。・・・記憶の底に大半は埋もれて行くけれど。
とは言え、木がたくさん無くなってしまった殺風景な住宅街にずっと住みたくはない。ただ、まだ好きな風景が朝起きたときに開ける窓から広がっている間はここに居るだろう。だけれどその先は未定。自分の気持ちが変わるか、それとも場所を移動して変えて行くかだ。
では今日はこのへんで。