夜は眠っているのかどうか、自分でもよくわからない。最近は夜は布団に入ると静か過ぎる音に耳を澄ませて、自分の呼吸だけを聞いている。暗い中で瞼を閉じているのに明るい感じがするのは、眠る直前まで照らされ続けている灯りのせいかもしれないな。光と静か過ぎる音で寝付いたのかどうかいつもわからないが、気が付いたら眠っていて、朝の音が聞こえて、本当に明るい光が部屋に入っていることに気が付く。不眠というより、遅寝遅起きが定着しつつある。春になったら、夜よりもショボショボしている目を少し無理矢理開けて、休んだはずのだるい体を動かして起こすような、さらに眠たい朝を迎えるのだろうか。今はまだ春じゃない。
すっかり夜の住人になりつつある。夜中まで平気で起きていることが多い。ケーキ屋の手伝いに行く日やボランティアの会議等がある日は時間に気をつけているが、他の日は時間の制限なく生活している。健康には気をつけているけれど、大したことをしているわけではない。ただ、ご飯は3回必ず食べるし、睡眠時間も7時間程度はある。運動やピアノの練習等、自分への課題&楽しみとなるものは時間を取ってやっている。
だからなのか、煩わしいと感じるものが減った。いや、減らした。減らし続けている。ほんの少し先の未来のことは考えるが、遠い先のことは考えなくなった。だから心配もしていない。別に自分に特殊な資格があって食うに困らないだろうとか、自分に生きる自信がついたとかでもなく、先のことを考えても仕方がないということが身に付いただけである。どんなことが起きるかわからない不確定な未来を心配して、今をないがしろにしないようにして生活するようになっただけだろうと思う。今暫く享受出来る生活を存分に楽しむということ。
Let the future take care of itself.という言葉を知った若い頃、自分の机の横に書いた。たまに見直して「ちゃんと今を生きているか~」と自分に声をかけていた。どんなに落ち着いた生活を送っていても、常に危機感ばかり、不安ばかりの自分の気持ちの落ち着きの無さに、嫌でも付き合っていたのだ。それが無くなって来たのは、年を取ったせいでもあり、こういう生活を決めて始めたせいでもあるのだろう。以前はまるで、ずっと船に乗り続けて錨をどこにも下せないような感じであった。それはなぜなのか。考えてみたら、自分で錨は下すものだと思っていなかったと思う。誰かが引き留めるとか、留まる理由やきっかけはあっても、結局はその場に留まるのは自分で決めることだ。そして、また動きたくなったら、錨を上げて、好きなところへ船を進めればいいのだ。選べばいいのだということについて、自分で心底納得している。
今は意識的に何でも選んでいる。気分で決めることすら、その気分というものを堂々と選んでいる。利益を得ようとする自分の思考だけにがんじがらめにならず、一見不利益な思い付きでさえ大事に扱う。たぶん、どこかで選択というものはどちらでも同じことになる、と感じているからかもしれない。未来のことはわからないし、過ぎ去った過去は変えられないから、間違ったと思った選択があったとしても、それは一瞬で終わり、今という現実の中で常に生きていて、ほんの少し先のことを考えたり思いついたりして、何かしたらやったりやらなかったりすることで生きている。
どっちを向いて生きているといいか?なんて考えることもあるけれど、間違いだとか、正しいとか、前とか後ろとか横とかないのだ。自分を取り巻いた周囲全部はどれを選択することも出来て、ただそれを選んだ自分がいるだけのこと。当たりくじもハズレくじも、そのこと自体を楽しめばいいかなと思う自分がいる。絶対など無いしねぇ。一体、誰がこの世の「絶対」みたいなものを知っているというのだろう。生きて死ぬことぐらいかな?と思うけれど、自分の知らないところでもしかしたら人は死んでいないかもしれないし、生きてさえいないのかもしれない。そんなわからないことまで、自分の生きる判断の範疇に入れていないよォ。
ここまで書いていて、人は自由なのだなと思う。少し不自由な世界に見えるかもしれないけれど、誰もが自分というものの中身は結構自由だな。影響を受け入れるのも与えるのも。
だらだら書いている。では今日はこのへんで。