上とか下とか。限りないなぁと知ることになって、誰かと比較するというのをやめたように思う。目につきやすいのは自分より○○が上、というような感じである。ショウモナイことなのに、どうしても社会における自分の位置づけというものについて気にしてしまうのか、若いときは自分より成績がいいなとか、早いなとか、たくさんあるのだなとか、上げたらキリがなかったのだが何かにつけて気になっていたように思う。今はというと、確かにそういうところはあるのだが、それによって自分が変わったとしても大概のことがどうにかなるわけでもないことがわかる。だから人のペースに気を取られて焦ることも無くなった。自分がどれだけ何か努力等に努めていっても、どこまで行っても上には上がいるし、それに下には下がいるということに気が付いて来たからだと思う。
そう。何かについて自分が劣っているなと思って自信をなくしても、ほんのちょっと見回せば、下には下がいるのである。上とか下とか、生きるときに本当に意味の無いことなのだなぁ。生きるきっかけにはなることもあるのかもしれないが。結局どこまで行っても、「自分はどこまで行く?」みたいなことである。どこまでやれば自分が納得するのだろうということに尽きる。視野が狭いときはちょっとしたことで満足も一瞬出来ることもあるけれど、それも時間が経てば視野が広がり、満足出来ていた気持ちが急に失われて、次の満足が行くまで動き出す。その繰り返しだ。ある意味不毛である。満足など得られるのは一瞬なのだ。辿り着いた途端に満足が遠のいていく。いつまで経っても上に横に下に広がって、究極の満足に達することなどないのだろう。立ち止まってもいいし、やめてもいい。我武者羅に頑張るというのもあるだろう。反対に急に無気力になることもあるなぁ。
それでもそうやって、自分の気になるところへどんどん向かって行き、生き続けるだけのことである。ある地点で自信がなくなっても、少し下の人が無限にいるのだということを見てしまうと、なぜ自分は上というわけのわからないところへまだ進みたいのかと疑問に思い、問い、答えを出して「もういいか。」となることも多い。興味がなくなり、熱心では無くなる。放置して、また違うものを見ている。そんなことの繰り返しをただただやっているのだ。自分の位置付けなんて、あるようでないまま、変容し続けている。定まって確定したものなどきっとないのだろうな。
だから、人様に何を言われようとずっと変わり続ける生き物として、浴びせられる言葉は常に適していない。過去の自分のこと?と思う。称賛も中傷もどちらも、過ぎ去って行くものだ。一喜一憂する必要なんて無くて、ただひたすら自分が興味の湧くものに向かうのみ。
書いている途中、ショウモナイは仕様もないという言葉で正しいかどうかを辞書で引いていて、「将を射んと欲すればまず馬を射よ」という言葉を拾う。「章を断ち義を取る」という言葉も読んだ。どちらも漢詩から来ているのかあ。漢詩は面白いもんだな。学が無い自分をここでわざわざ披露するのは馬鹿げているかもしれないが、手にした紙の辞書を広げて見ている人にしかこの言葉の拾い方はないのだよね、ということを書いておきたい。急いで直ぐに答えが出る便利なものにも、失っている何かが確かにあるってことだと自分は思う。回り道こそ、自分を豊かにしていると思う。出来るだけゆっくり、面倒くさいことが多い日常がとても面白くて好きだ。こんな気持ちを知ることになるなんてねぇ。50年以上かかったってことだな。滅茶苦茶回り道、イェ~イ。
では今日はこのへんで。