写真と俳句のコラボレーション展に行って来た。友人がよく行くカフェで知り合った写真を撮る人と初めて試みたもの。写真を撮る人が表現したいものとその写真からインスピレーションを受けた人が俳句を作り、一緒に展示をするというもの。公共の小さなスペースであったが、近くに小学校や図書館があるので、学校帰りのランドセルを背負った子どもたちや様々な人が見に来ていた。
友人は俳句を始めてあっという間に認められ、いろいろなところで賞をもらったりしていて、もう十分にいろいろと慣れているだろうにと思うのだが、それでも今回の展示会のように思いついたことをやっていくというのは、かなり勇気がいるものだったらしい。どういう評価を受けるかということよりも、写真に俳句をつけるなんて!と普段経験のないことをやることの自分のハードルがとても高かったそうだ。企画として俳句をつけることに賛同してくれた人の写真に俳句を詠んだが、その句を読んで違うからいやだ、と断って来た人も一人いたらしい。花火の美しさが際立つ写真に、どうしてもその花火の音をイメージして戦争を思い出してしまうので、平和の願いが込められた句を詠んだためのようだ。写真を撮った人はただただ純粋に楽しい、美しいというものだけを表したかったのか、俳句の平和の願いは正直なところ余計なものに感じたのかもなぁ。それはそれで素直な感覚だ。
表現は刺激を生み出して、受け取った人がまた表現をして行き、繋がってまた表現が広がって行くと私は思うが、どこまでが自分のものとして完結したいかは人それぞれだろう。今回のような写真と俳句、一緒に置いてあっても、別物だと見ることはあるし、総合的に見ることもあるし。表現の世界も様々だよなぁと思って話を聞きながら見ていた。
展示を見た後、少し時間があったので久々のケーキの会となる。いつも二人で通っていたカフェは最近値上がりしてランチにも行ってないんだよと言われたが、私も全然行っていなかったので今回はその店に行った。以前は2個のケーキを同程度の値段で食べられたが、今はケーキセットもケーキ1個とお茶のみとなる。ケーキバイキングがあったのだが、それも今はなくなり寂しい限りだが、自分もそれほど食べなくなったし、店も自分もお互いに時間の流れと共に変化していくのだなと思う。きっとちょうどいいのかもしれない。いつまでも同じに留まるものなどないのだ。
とうとう足がね~、と20歳以上も年上の友人はこれから病院の予約があるからと別れて、私も帰宅した。あちこち体はガタが来ていても、ひとつひとつの言葉がみずみずしいと感じるなぁ。付き合ってもう30年近くになるのか。中身の若さや情熱は変わらないままだなぁ。おしゃれで背筋がピンと伸びていて、疲れたりやつれた雰囲気を見せることがない。長年人前に立って話をしていたせいもあるかもしれないなぁ。その一方で、家族との会話には隙だらけで、シドロモドロになるところもあり、弱さと強さがそれぞれ出たり消えたり、いろんな表情と伴っているのを見ていると、人間っていくつになっても面白くっていいなぁと思ってしまう。
無職になったときに即お祝いしてくれたのも友人だ。その友人から「ここから先、働ける時間は長いよ。何をしようと思っているのか?」と言われた。友人らしいなと思う。働かなきゃいけない時間でもなく、稼ぐ時間でもなく。望む望まないに限らず働けちゃう、何か出来る時間がまだたくさんあるのだと。呆れるほど思っているよりも長い時間があるからどうするよ。困っちゃうよな。明日死ぬかもしれないけれど、死ななかったら時間余っちゃうんだから。人生の暇つぶしも大変だよ、・・・って心配されてんなぁ。ふぅ、どんなもんかな。
今日はまた他の友人と出かける。では今日はこのへんで。