時間が経っているからか、文章を書くことが滞る。上手く書き進められない。慣れとは恐ろしい。書かないことが日常になると、言葉がすんなり出て来ることが難しくなっている。たった数日、2日ほど時間が空いただけなのに、どの言葉が自分の伝えたい言葉だったのかが怪しくなって来る。話さない、書かない、聞かない、読まないというのは、自分自身を酷く曖昧な生き物にしている感じがする。離れ続けてみて、文字や言葉こそが、自分の意識や意思の存在を形作る唯一の物のような気がして来た。言葉で、文字で。それらを自分の中から出し入れして初めて、そこに生きている自分がいるのだなと思う。
自分がどう考えているのか、文字となって文となり、客観的に自分の目から見ることや言葉を聞くことが大切なのだろう。文字にしてみたら、自分の一部分でありながら、外に出た物はいつだって別物に変化している。変わり続ける自分の考えをいかに的確に次の瞬間を生きる自分へ伝えて行けるかだ。モヤ~とした頭では言葉が綴れない。自分は何を見て、どういう意見を持っているのだろう?と常に考えて言葉にしていないと、たぶん周りの状況に流されてしまうだけになってしまう。周りの状況に見かけは流されて、たゆたいながらも、他の何者かではなく自分は自分でありたい。何も考えずにただ流されてしまうのはきっと違うよなと思う。
ちょうど、俳句の創作にのめり込む友人の展示会を見て来た先日。自分より20歳も年上の友人が、前の展示会と今回の展示会において創作する自分についての違いを語っていた。写真家の人とコラボして、その写真を使って俳句を添えているのだが、前回は初めてであった。そのせいか、写真一枚から伝えられる情報だけでなく、写真を撮った人が何を思いその一枚を撮っているのかというところを気にして俳句を作っていたと言う。今回はその写真その物から、自分が何かを受け取って俳句にしたのだと言って、「今回は自分の作品になった。」と嬉しそうに笑っていた。
そんな姿を見ると、ただ目の前のことに向かうのではなく、向かっている自身の姿を常にとらえているのだなと感じる。過去と今の違いを楽しみ、変化して行くことを発見と考え、自分はいつもどうなのだろうかと意識しているよなぁ。平たく言えば、自分自身のことをよくわかっているということだろう。
そういう友人だから、話をしていて楽しいのだと自分は思う。相手が自身をよくわかっているからこそ、興味を持つのだ。自分も自分のことをよく知りたいと思うし、友人のように自分自身のことを自分の言葉で相手に語ることが出来ないとダメだなと思う。
今は結構ぼんやりし過ぎて、流されるだけ流されてて、頭を休めっ放しかもしれない。たぶん言葉を綴らない時間が長いし、人に語らないからだろう。今日も書かないなら、書かないで過ぎてしまったかもしれない。世の中には、それでもいい人もいるだろう。
でも、自分は自分の言葉を少しでも書き続けていたい。自分自身を知っておきたい、という気持ちが自分の中にあるということを、今日は書けただけでも良かったなと思う自分がいる。これからまた仲間と運動に行く。書く時間が無いね~。書いた言葉は少しつまらなくても、自分はやはり一日の中でこの瞬間がほっとするのだ。
では今日はこのへんで。