誕生日のお祝いメッセージをくれた先着一名様に今年はギフトを差し上げてます、
というイベントを自分の中で作っていた。そのことを家族に話したときに、目の前で祝いの言葉を聞くよりも早く、すでにメッセージを友人からもらっていたので、自分の家族はギフトを逃した。ははは。残念だったねぇ。今日、ちょうどケーキ屋の手伝いに行ったので、お菓子のギフトを作って送って来たところだ。最近の店のお気に入りのクッキーやパウンド類などを詰め込んだ小さなギフトである。ケーキ屋に手伝いに来ている間の、とても短い時間のバイト代が無くなるかどうかという程度のものだけれど、それなりに形になった。箱は店主が選んでくれた。店から宅配便で送る。少し他で送るより割引があるので、最近はどこかへ送るギフトはケーキ屋から送っていることが多い。渡された伝票に今日も同じように宛先を書いていたら、途中で店自体が送る伝票だということに気が付いてしまった。まぁ、自分の名前だけ書き込めば済むので、店主に伝えてそのまま使うことになった。一応問い合わせ先が店になってしまうので大丈夫かと聞くと店主からは全然OKと返事が来た。お店の名前の下に自分の名前を書いてある。家に帰ってから「まるで自分の店みたいだね」と家族に言われたがホントだな。自分の店みたいに愛着があるから、伝票がコレになって、かえって良かったかもしれないなぁ。
ところで半世紀も生きていると、だんだんと友人も淘汰され、自分の誕生日に必ず連絡をくれるというのは稀になって来る。誕生日は覚えていても、何かしらの都合が入って連絡するのが延び延びになってしまうことだってあるし、お互いに連絡先を失くしたり、いろんなことがあって、そのうち簡単に音信不通になることだってあるのだ。ちなみに、今回ギフトを受け取ることになった人は、自分の高校時代の後輩である。まさか、こんなに長く今も連絡を取れているとは。どちらもそれなりに元気に過ごせて、生きて来られた。後輩は若いときから何度か死にかけたことがあったのだが、今の今まで連絡が途切れないで来られたことはとても嬉しい。これから先、どちらかが亡くなることだって当たり前のようにあるから、今思いついた言葉は伝えてるし、やろうと思ったことはやっておく。お互いに、高校時代の感覚のままでいられる相手だ。本当にありがたい。
自分の人生のどんなタイミングであれ、知り合った人たちは、同じその時代を生きて過ごして来た人である。その人がいるということは、そのとき生きていた自分を知っている。自分がどんな顔をして相手と向き合っていたか、自分ではよくわからないけれど、きっとその相手だけに向けた思いや言葉や表情はその人だけに存在する自分の姿があり、自分の中にも確かにその相手にだけ向けて存在している自分自身の姿を感じる。向き合っている人の数だけいろんな自分が存在しているし、どれもこれも自分の一部である。いくつもある自分の一部がその相手との間に存在しているのだ。だから、その相手が亡くなったりすると、そこへ向き合っていた自分の一部が無くなってしまう感じがする。相手が見ていたたった一部、一面の自分だとしても、そこに向き合うときの自分の心の向きみたいなものが永遠に消えてしまう。自分の一部がどこかで確かに欠けてしまうような気がする。だから、相手を失い、相手に向かっていた自分自身も失ってしまうという悲しみに陥る。相手も自分も、ダブルで失っちゃうんだよなぁ・・・。
今、生きている友人たちの存在はとてもありがたいな。懐かしい友人に会うとき、自分は懐かしい自分自身にも会っているようなのだ。そうして、失くしてしまったと思っていた「自分」がちゃんと自分の中に残っていることを知ることが出来る。好きだった自分なら尚更だな。その反対に嫌だった自分にも会えば、それも案外いい。そんな嫌な自分はもうすでに存在しないことを知るかもしれないし、違う目線で自分を見ることが出来るかもしれない。嫌だった頃の自分自身を振り返って、「何だコイツ、かわいいな。」と感じることもある。自分自身が思っていたよりも意外とイイ自分だったりするんだゾ。若い人にはわからないだろうなぁ。それはそれでいいんだって。それは長い、長い時間の後のお楽しみでいいんだよ。
では今日はこのへんで。