取り留めもなく、無責任に。けれど堂々と?それがクライシスか。

小腹が空いたので団子を作ろうと鍋にお湯を沸かして、だんご粉の袋をハサミで切って粉を投入。じゃない!慌てて鍋のお湯をギリギリまで捨てて、底に残った熱湯と粉に新たに粉を足す。間違えた。鍋で湯を沸かしている間に、隣に置いておいたボールへ粉を入れてこねるはずだったのに。なぜか自然に粉を湯の中へ入れてしまった。すぐに気が付いて良かった。だが、たくさん水分を含んでしまった粉はそれだけでは団子にならないので、結局大量の粉を足したことで予想よりも団子がいっぱい出来上がった。最近のふとした間違いはこの年代特有だろう。

久々に会うために待ち合わせした友人も、やらかしたようだ。どこで間違えたのか、勘違いしたのか、予定していた時間より遅れている!と慌てて急いで出たらしく、早めの電車に乗り、気が付いたら予定よりも充分早くに待ち合わせ場所に着いてしまったとの連絡が入る。

会うと「そんなことばっかりだ」という話になる。カフェで順番待ちをしている間に、店のショーケースにあったラム酒につけたボール型のケーキを見て、「ラムコロッケってなんだ?」とか言っているし。その隅に置かれているグレーの箱のような物が気になり、こちらに尋ねて来る。きっと、ちょっと気が何かに引っかかったり、推測して、自分なりの形が作られ、未確認だけれど堂々とアウトプットする。そんな感じなのかなぁと思う。我々の世代は、という言い方でひっくるめるとそんなことはとんでもないと叱られそうだから、私と友人二人は、とここでは限定しておこう。

明確に何らかのものに対して怒りが湧くのも特有かもしれない。経験も重ねて、今までだったらあやふやなものとして処理出来たはずのものに「物申したい」欲求にかられる。許せたものがもう許せなくなり、口から出る。友人曰く、「ずうずうしくもなったから」という。ある程度身の回りに起こることに対して、自分なりのハッキリとした結論があるにもかかわらず、黙っていることなど出来なくなって来た感じだ。怒りふつふつ。内容はどうであれ、あちこちでドッカーン、ドッカーンと吹き出す。昔若い頃なら、それを見ては何で感情的になるんだ~と引いていたもんだが、今はそれも自分の絶好のタイミングだと思う。やらないという選択はもったいない。今しか味わえない感覚だろうと思う。まぁ、いつか赤面する経験になるのかもしれないが、それも含めて今の自分の役割でもあるなぁと思う。知らない顔をして澄ましているくらいなら、その場に行かない方の選択をするかな。

何がともあれ、普段から勘違いや見落とし、見間違いの連続である。若いときなら自信を無くしそうなくらい連続するが、もう自信などというものは陽炎のようなもので、存在してもあるかないかわからないものを頼りに生きることなど、どこかへ置いて忘れて来てしまっているから、どうでもいい状態だ。二人で話をしたが、「夢を見る力ももう失っている」「人を信用する力みたいなものもない」という言葉には共通する感覚があるようだ。夢見る力も信用する力もないが、現実にそこに転がっている体はある、自分はまだ生きているらしいからあるよな?程度の実存感だけはまだある。それだけしかなくても人は生きて行けることを知っている。そんなお年頃になった。

何だか、身の回りにくっついているものを無性に削りたくなる。もう十分に試し、持ち過ぎた気になる。きっとそんなことはないのだろうけれど、とにかく要らないなと思う。次は何を捨てるのか。時間の伸び縮みする感覚も人と関わるペースも変化している。人を削り、物を削り、仕事や家を削り。失敗したな~とか思うのだろうか。今の世の中で失敗をするというのはなかなかしない選択だが、今の気分なら超えられる気がしてしまうよねぇ。失敗しないで来たから、ちょっと失敗というのはここらでしておきたいとか。まだ回復する力という若さがほんの少しあるのも知っている。もうすべて若さが無くなって年を取ったんだというより、こんな状態でも若さがまだ残っているんだなという程度だが、あるにはあるんだよな。

病気になった父親を気にしている感じがしたのと、子どもらが家を出て自立してくれないかなという言葉を聞いたのもあって、子どもを残して実家に一人帰って居候してみるというのは?という提案をした。また数か月後、面白い展開になっているはずの友人の報告を楽しみにしている。