ひたすら場所を移動しながら書いている。家の中で涼しいところを探しているが、緑茶を二杯立て続けに飲んだせいで、おそらくカフェインが急に体に入った作用で代謝が上がって汗が噴き出していて、どこにいても汗だくになっていて暑い。昨夜爆睡していたから眠気もないのに、カフェインでより目が冴えてしまう。しかも何だか動き回っている。ついでの動作が多いのだが、最近の暑さで避けていたことも、すんなり手が伸びる。次で良いか、と思っていたペットボトルたちをすぐに捨て、その足で古い木の雨戸を開け、足元に伸び切って邪魔していた雑草たちを軽く処理した。ほんの数分、数秒?の短い時間の手間を「暑いからいいや」と先延ばしにしていたが、今日は手が伸びる。
カフェインだけのせいではないだろう。ボランティア仲間の一人から、パートナーが回復して来たよという知らせが昨夜入って来たというのも大きい。胸のつかえが一つ減った。薄く何枚も層になったミルフィーユみたいに、少しずつ人から勝手に感じ取ってしまった寂しさや辛さを心の深いところで重ねて行ってしまっているのだと思う。それがたまにひらひらとより薄くなって砕けて解消されると、たった一枚の層のひとつであったとしても、軽くなる感じがする。解消されないものはたぶん生きていたらたくさん積み重なって、もう意識が届かないというだけで残って自分に影響を及ぼしていたり、いなかったり。自分を見えないところで形作っているのだろうと思う。
とまぁ、ほんの少し解消された感じがあって、実は自分の重荷になっていたんだなと後で気が付く。長い1ヶ月だったなぁ。
昨日夕方、ホラー映画を鑑賞。昔の映画を家で一人で観た。子どもの頃は、自分の家族が怖がっていながらそういう映像ばかり見たがる人だったので、一緒にクッションを抱えて家のソファに座って画面に向かうということをしていた。何でこんなことを思い出すのだろう?私は一人で観たことはほとんどない。誰かがいる場所でしか見ないのに、なんだか昨日は見てみたくなった。盆の時期だから、亡くなった誰かが訪ねて来ているのかもしれない。ちょっと亡くなった人たちを思い出せ、と。7月と8月、なぜか盆の時期にそれぞれ亡くなった人たち自身が「今が盆だ」と思う時期に、やって来るのだろうなあと思っている。自分では思い出せない人も、思い出す人も、ごちゃ混ぜにきっと来ているのだろうなぁ。何となく知らない人の気配と、動物の気配がした。今日はもういない。
観た映画はと言うと、ちょっと家族愛を描いた映画でもあったが、最後は後味は悪い。というか、お決まりのパターンで、ハッピーエンドぽく終わりかけてそうじゃない、っていうもの。王道か?ホラーとか誰かが作ったものは怖さが「驚く」感じのものが多くて、たまにはいいな。怖さには種類がたくさんあるけれど、自分が理解出来ないものというところに怖さがあるのだろうから、自分の理由付けが出来ないものやモヤモヤとした訳の分からない感覚が残るものに出会ったとき、初めて怖くなるのかもなぁ。そういう意味では「ああ、そうだね」と思うものが多くなった。大人になって、ちょっとつまらなくなってしまったと同時に、ただそのときを案外楽しむことも出来ているような気がする。後を引かないからね~。一人暮らしで夜気になってしまったら眠れないからちょうどいい。
怖さについて、考えてみると人それぞれなんだなぁ。怖い顔して出て来る何かについて「だから?」「で?」という反応をする人もいる。見慣れてしまえば怖くないのだ。慣れは鈍感になる。究極の怖さは「死ぬかもしれない」というところだろうが、それすらどうでもよくなった人には「だから?」ということになる。生への執着がないから、生きることへの意欲がない場合、太刀打ち出来る相手はいるのだろうか。けれど、実際には死ぬのはいいけれど、食べられて死ぬのはいやだ!とかいうセリフを映画で聞くことがある。死に方には執着しているのかなぁ。怖さって、自分の執着しているところにあるのかもなぁ。
では今日はこのへんで。