ブログを続けて来て気が付いたことがある。自分のブログを見続けてくれている人も中にはいるのだが、時間が経つにつれて見に来る人が変わって行くのだということがわかって来た。自分も常に同じ時間に書いて更新しているわけでもないので、時間帯による読者が変化して行くのを感じている。書く側として続けるのを止めてしまい、いなくなる人もいるのだよなぁ。
小学生の頃、交換日記というものが流行っていた時期があって、勧められるまま、求められるままに受け入れた。少しすると(本当に少しだ)、相手が書けなくなってくる。自分を誘っておきながら、誘った本人は面倒くさくなって来ちゃうんだな。文章を日々書くというのは思うことが無ければ書けないし、書く習慣がない人には書けないものなのだろう。大体小学生なのだから、文章を書くということよりも、外に遊びに行く方がいいだろう。自分も病気で寝込んでいる以外は外で走り回る方が好きだったからわかる。何を一日の中でやるかは選んでいるものだ。
それでもその中に書くのが好きな人はいて、続いたこともあるし、手紙のやり取りを続けていた相手もいたので、書く相手には困らなかったが、やめて行く人を見て来たせいで、「書く」という行為は続かない人の方が多いんだろうなという印象がずっとある。だから、ブログを書いていても、そりゃそうだよな、と思う。書き手じゃなくなっても読み手で続く人もいたりして、読むのが好きな人もいる。そういう人は書かないけれど、話すのだろう。または、自分が言葉を話したり書いたりしない分、自分の思いにピッタリ合う他の誰かの言葉を探し続けて、読み漁るのかもしれない。代弁してもらうような感じかもなぁ。人の言葉を眺め、その文字をなぞることで自分が言った気になりたい、とか。
私は映画やドラマやアニメをたくさん見ているのは、そういう気持ちになりたい、気分になりたくてきっと観ている。それと同じように誰かの文字を読むのはそういう作用があるのだろうなあ。けれど、見て探すより、自分で発した方が早かったりする。それに、自分の持っている言葉を話したり書いたりしないと、言葉を発する回路がスムーズに流れなくなるから、自分の中に留めているだけではダメなんだなと思う。どこかのイイ言葉を拾い漁るより、やっぱり自分の言葉を発する方がいい。拾い漁って得た言葉は知っただけでは自分の言葉にならないもんな。使わないと。映画等も見ているだけでは擬似体験だけで終わってしまう。体験が自分のものにならないもんなぁ。
ただ、読むというのは文字から得たものをそのままではなく、自分の頭の中で立体の映像にしたり、記憶した(忘れているものも含む)本当の体験から感覚を想像するというところが生じるから、自分で話したり書くことに近いのかもと思う。映像を見ているだけだと、自分の想像の余地が減り、範囲が狭まる感じがする。だから頭を空っぽにしたいときにはいいのだけれどね。読むのと映像を見るのとでは、「自分がどう思うか」というのを能動的に積極的に組み立てて、言葉や映像にする力が働くものとそうでないものの差がありそうだ。
結局、何が言いたいか。わからないまま書き進めてしまった。そうだなぁ、書くことが続けられる人と、そうでない人がいる。自分は言葉を書きたい人なんだなってことかな。だから続けられている。ここではブログを書かなくなった人もいるし、読み手になった人もいる。読み手になって、ずっと他人の言葉を追っていて、またふと書きたくなる人もいる。人はそれぞれだね~。だからこの場を去るのも当たり前なんだ。人は変化して行く。文字ばかり追っていたのに面と向かって人と話したくなる人もいたらいいなぁと思う。自分は書くことは好きだが文字を追っているよりも、誰かと話をしている方が好きだ。だから、こんなにいつも書いておいてナンだが、ここに今まで来た人がいなくなるというのはどこかで嬉しさもある。きっと誰かと過ごして楽しくやってんだな、良かったって思うのだ。
では今日はこのへんで。