どんなに足搔いても、人はひとり一人分ですが、その大きさは到底計り知れなくてすごいですね。

必要に迫られてパソコンの機能を学習した。ほとんど使いたくないと思っていた機能を調べつつ使う。やる気のあるときにしか出来ない。たまにこうやって人に合わせて望まれる足並みを揃えたりする。世の中の新しいことをやって行くのはやったらやったで面白いと思うが、普段から好んでやることではない。世の中に合わせるということが嫌だというのではなくて、「合わせろ」とか、さも当然のように言われると反発するだけのこと。きっと誰かが困っていたりして「代わりにやってくれないかな?」と頼まれたらやってしまうのかもしれない。だから相手が悪意を持って何かやらされそうになったとしたら騙されてしまうかもしれないなぁと思う。

人は相手の背景が見えてしまうと、いろいろと協力してしまうものだろう。それを利用した物の売り方があるらしい。売りたい物にストーリーをつけることで、買い手には親近感が湧いて思わず買いたくなる、というようなやつである。これはきっと昔は身近な近所の商店街とかだったら、買い手もごく普通に売り手のことを親身に感じられて買っていたんじゃないかと思うが、それと同じような感じである。町の住人同士、助け合い、持ちつ持たれずってそんなことじゃなかったのだろうか。ただし、近場ならばいいな、である。

今はどこかものすごーく遠い土地の物を買うことによって、範囲が広がったから、そういうことが難しくなった。地産地消と言うけれど、いろんな物を自分たちの住んでいるところで賄うなんてことはなかなか難しい。今はあまり聞いたことのない遠くの世界の片隅の人を助けるために、海を越えて来た物を買って支援したりまでする。生産地のことだけじゃなく、近くで物を選んだりすることは少なくなっているし、あまり買わないで過ごしているように感じる。近くに個人のお店があったとしても、車を出して遠くにある安い大きなお店にわざわざまとめ買いに行くこともあるだろう。そもそも勤務先が遠くて、帰宅時間も遅くなると、その時間まで開いている店に寄ろうとしても、近所にはないから止む無く・・・とかもある。

だから、家からどんどん離れた場所にしか買い物出来るお店が無くなって、結局近場はシャッター街になってしまう街並みを自分も作ってしまう一因になって行くなあと思う。いつか年を取って、近場で何か買おうとしても、その頃には店が無くなっているかもしれない。それは直接売り手の顔も見られず、散歩や買い物ついでの少しのおしゃべりも日課に出来ず、きっとつまらないだろうなぁと思う。

だから、自分は身近な個人の店の一客として、今は出来ることをしようと思っている。どうせなら身近な人のそのストーリーを肌で感じ取って、そこにある物を買いたい。どこかの遠くにいる誰かのストーリーを今はイヤって程たくさん容易く見ることは出来るが、なぜわざわざ遠くにいる人のストーリーを知り、自分の選択肢を広げて選択を困ってしまう必要があるのだろう?買い手も売り手も、お互いの欲望を広げてしまっただけのことじゃないのかなぁ。私は肌で感じた同じ空気を吸っているであろう身近な店を応援したいなあと思う。自分でそのことを選ぶことが出来るのだ。一人の客が買うには限界はあるから、いや自分には出せるお金の限界があるから、だからこそ誰を選ぶか、何を選ぶかだ。もちろん、自分が微々たるお金を支払い続けたとしても、潰れる店だって結果としてはあるだろう。けれど何もしないでいたら、きっと何ひとつしなかったことを後悔するだけになってしまう。出来るだけ地産地消、身近な売り手から買い物することを選ぶぞと。

で、大荒れの天気の一瞬の晴れ間に、今日も店が潰れないよう、ケーキを買いに行った。美味しいし応援しているんだ。塵も積もれば、だ。今日は応援している知り合いの音楽家のイベントのチケットも予約した。私にはたった一枚、一人分のチケットしか買えないが、誰かを選び、買うことが一枚だけは出来るのだ。私のような人が一人、もう一人、いつしか集まって大人数になる。その応援の力は大きいはずだ。

もしかしたら、たくさんいるとか、あることに越したことはないのかもしれないけれど、それよりも一人分の価値のすごさを最近感じている。このブログでもそうだ。「自分は応援している」というたった一人分の意思表示を見ると思うのだ。だって一人の人がどう足掻いたって一人だ。そのたった一人、だけれど唯一の自分自身の一人分を示して「私は応援しているよ」と出してくれるっていう、その重み。その価値。うまく言えないが、生きている人の一人分って!!と考えるだけで、価値が大きくてすごいなあと思う。なんて言ったらいいか、本当にわからん。人って偉大だ?か。あー、なんも言えてねぇ~。言葉で表現出来る力が足りなくて申し訳ない。

では今日はこのへんで。