指のうち3本くらいが動かない。肘から持ち上げることは出来ても、人差し指と親指あたりは動くが、他はまったくのブランブランである。痺れはなく、感覚がない。何もないと思っていた普通の朝だったはずなのに、こんなふうに目覚める日が来るとは。これではピアノも今までのようには弾けず、物を作るのも大変になるだろう。左の手の半分があるにもかかわらず動かないって、感覚がないってこういうことか。
体の一部が動かない人たちの肉体ってどういう感じなのだろう?と子どもの頃から気になっていた。肉体はあるけれど、その部分には力も入らない。皮膚の感覚はどうだろう。痛みも感じるのか?自分の体も、動く意思ってどこからどこまで通じるのだろうか、体の端っこまであるものなのだろうか等と、伝わる感覚ということや意識出来ない場所ってどんな感じなのだろうかと思っていた。とくに感覚が今まであったのに無くなるという経験はありがたいことに今まで体験していないから、気になっていたところ。
今朝はこの感覚を少しばかり味わっていた。昨日までは確実にあったものが無くなる感覚。恐怖はなかった。そのうち戻るなとわかっていた。ただ単に、二度寝して横向きになり、どうやら腕ごと下敷きにして眠ってしまったらしい。次第に感覚が戻って来たのでもちろん安堵感はあるが、ここに肉体があるのに痛みもなく動かないという体験をしたことで今朝は特別な朝に感じてしまった。
大昔、大学生の頃、あるイベントで他大学の学生と集まった場所で雑談中に「体のない場所に痛みはあるかないか」みたいな話をしていたことがある。神経が通ってなければ痛みがないはずなのに、神経も体もない部分に痛みがある話。実験とかで神経を遮断して、その先が痛くないとかなんとか。実験は魚でやっていたからどうだとか、人間は事故などで無くなった足の先が痛くなったりする話をして、それは心理学の分野ではってことじゃないか、とかそんな話をしていた。
今となっては解明されていることだろうから話にも上らないかもしれないが、その頃みんなでいろんな想像をしながら時間がある限り話していたことを思い出す。知らないから想像力で話が膨らんで楽しかった。知らないからこそ、好き勝手に想像していた。
今の時代、周りを見てみると何でもすぐ調べられるから、知識として何でもかんでも知ってしまってから動くことになっていて、行動するのはつまらないだろうなあと思う。私は手探りで試行錯誤しながらがいい。誰かがやったお手本通りで答えがわかっていることなどに私は魅力は感じない。感覚で味わいたい。自分の今持っている経験や知識程度の物を使って、体感を味わいながらのらりくらりやっていくことで近道と言われるところを外れまくった先にある物を見てみたいなぁと思う。
そして今日の朝である。自分が知らなかったことを予想外に体験的に知るというのは本当に面白い。意図した訳ではないが、出会ってしまった感じだ。今朝のブランブランの感覚も、目には見えているだけで、一向に感覚が入らない体験である。ちょっと可笑しかった。もしずっと実際に動かなかったとしたらこんな風には思わなかったとは思うけれどそれはそのとき。体が動かない心配や不安より、自分の体のことだからこそ、遠慮なく面白がってしまっていた。短い時間ではあったけれど、体験出来なかったことを体験してしまった。「うわ~力って入んないんだな。」あるのにない、ってすごかった。他の人には味わえない、自分だけの体験である。
だが他の人がうらやましがる必要はない。何もしなくてもこれから先、誰もが年齢を重ねていくことで味わう新しい体験がある。老化現象と呼ばれるものである。私のピアノの先生は「進化だ」と言っていたが、確かにそうなのかもしれない。今までとは違う、グレードアップした体験が出来るのだ。きっと1つの作業にものすごいエネルギーをいちいち使う羽目になるだろう。生きているって大変だ、と思うだろう。生に執着するだろう。全身全霊で全集中、みたいなことばかりで自分の生命力って強いすごいって思うんじゃないかな・・・想像でしかないが。
では今日はこのへんで。