食べて太るっていうのも、今出来る自由のひとつならば、ソレを自分で選択する。

太った。連日、自分より若い者と一緒に歩き、ココロの赴くままにいつもより食べていたツケが回っていたようだ。来週末にある歌の発表会のユニフォームを着てみたら、ボトムスがすんなり入らない。ファスナーや留め金が苦しそうに必死に堪えている。これはやばい。

ずっとそれこそ若いときから体形は変わっていなかったのに、ここ一年の体のだるみ?ゆるみ?は感じていた。筋力が一気に落ちたような感じだ。筋肉にハリがないとはこういうことか・・・。あちこち本当にガタが来ていて、自分の新たな変化に少々慄いている。だからと言って何をどう変えるかなんて、やって来たことがないので皆目見当もつかない。最近始めた新しいストレッチでさえ、筋力の衰えを感じる位だから、ここらでジムのパーソナルトレーナーをつけて学び、ちゃんと運動をした方がいいのかもしれない。が、散財しそうだし、まず箱のような建物の中で囲われた狭そうな所へ行くのが嫌なのできっと無理である。広いところでないと乗り気にならない。

ここで、その先のプランを組む真面目な人と現実逃避プランをせっせと作り出す逃亡者に分かれて行くのかなと思う。発表会をなかったことにする、というドタキャンの選択もあるかもしれない。けれど、最近歌を楽しく続けたいと思った矢先なので、これはない。まあ、ユニフォームは入るには入るから何とかなるはずだ。困ったらファスナーと留め具を加工してしまえばいいかと思っている。または、そのまま参加して、息を吸って歌い出したら、留め具がぶっ飛んで・・・というのも面白いかもしれない。どうせだったら面白い方を取る。だからやばいなと言いつつ実のところ、太ったことなんて、どうでもいいのだろうな~と思う。

太ることについて、かなりコントロールして気を付けている周りの人を今まで見て来て思うことがあるのだ。なぜ食を楽しまない?だ。本人が本当に自覚があって無駄に食べ過ぎたというのは良くないかもしれないが、楽しく食べて太ったならいいじゃないかと思う。もちろん、それで健康ならばである。人生を楽しく過ごせた結果、男も女も丸っとなった体は見ていても微笑ましいなあと思う。年齢を重ねて病気になるまで、そこまで食べられたことは幸せなんじゃないかと思ってしまう。こちらが見ていて幸せを感じるのだ。若いときに早くから食べ過ぎで病気をしてしまったのなら食事を減らすのはわかるが、それ以外の人でダイエットしていると言い、極端に食べ物の数を減らしているのを見たりすると「食べられる体があるのに」もったいないなあと思っていた。(たまに貧困が潜んでいたりもするし、すでに病気で痩せたり太ったりしてしまっていることの周りへのカモフラージュだったりもするけれど・・・。)

食べられる体を持っているというのは健康で元気で、恵まれているのだと思う。これは自分が歯や目や筋肉が髪や肌が変化して来たことで気が付いたこと。食べられる歯があり、物を見られる目があり、自由に動けたり支えたりする筋肉があり、手触りの良い毛や肌があること。これは最初から持って生まれた人ばかりではないのだ。これらをたまたま私は持って生まれ、持っていたものがこれから減って行くことを知った。せっかく未だ持っているのなら、使わないのはもったいないのだ。

だから、食べられるときに私は食べたいと思って、食べている。「せっかくだから!」。今日一日生きていて、せっかくだから食べるよ、見るよ、動くよ、自分を愛でるよ。太ったことより、ユニフォームが入らないことより、今ある幸せに着目する。さて、今日は何を食べよう?そうそう、まずは朝からシュークリームを作るのだ。

では今日はこの辺で。