取り扱っているのはダブって似ているだけでなく本人です

人間、30日もあれば変われるという話を耳にすることが多いが、どうだろう。ブログを続けてみようと思い始めてから、すでに60日を超えた。いつも何かを始めると、途中で止めることの方が難しくなっていると感じる。一日位休んだりすればいいものを、毎日繰り返し形を変えながら続けている。たぶん、続けるために何かを工夫する、ということ自体が面白くなっていることの方が断然多い。時間帯や書く場所を変えるとか、着替えてからとか、人の反応を見てから書く・見ないで書く等々、気が付いた小さなことを変えて試している。

ブログに関しては文章を書くだけなので、私はダラダラと工夫もなく続けているので大したことはない。だが、人によっては一文字も浮かばず書くことが進まないという人もいるようだ。そんなことはないだろう、と思って昔は信じられなかったことがあるが、学生の頃に作文用紙を前にして一時間ペンを持ったまま何も出来ない姿を何度も目にしたことで理解した。自分に出来ることは他の人にも簡単だと思ってしまって、誰にでも出来て当然とどこかで思い込んでいたふしがある。本当に人によって出来ることや続けられることは様々だ。たまたま、垂れ流しの文章ならばいつだって体力の続く限りは書けるというだけの自分である。

この「続ける」ということは「続けない」というのと同じだなあと今は思っている。自分にとっては表裏一体の事象だ。続けることが出来ることと続けるのを止めることが出来ること。どちらも出来ることなのだ。私は一旦何かをやり続けることは得意だ。というか止められない。だから、「やり続けない」という人を見るとうらやましいなと思っていたこともある。今は止めることを続けてみる、というようなことなら出来るかもしれない・・・というように、自分自身に出来る形や出来る考え方を無理にでもこしらえて、納得させる形を取ることで様々な行動を可能にしている。全く面倒くさい人である。始める、というのも割と得意だ。諦める、というのは苦手。どれだけプラスの要素を自分に言葉で感じさせるかが大事なポイントである。言い回しの違いで行動に対して無意識に拒否反応が出てしまい、動かなくなることもあるから気を付けないといけない。周りから見たら同じ事象でも、自分にとってはやはり気持ちのいい動機づけが肝心なのだ。

このような自分の取り扱い注意事項をいくつか持っているというのが年齢を重ねて得たものだろうと思う。ならば若い人は自分を上手く取り扱えなくてもきっと良いのだ。年齢を重ねた人も、別に取り扱い事項を持っていないことを嘆かなくてもいいのだ。生きていること自体が自分を知って取り扱いが上手くなることなのだ。そんなことを若いときに私も目にしたり、耳にしたことがある。言葉は知っていても、理解をしていても、身に付かないでいたが、やっとその意味が体感出来るようになった。自分はその年齢になっただけ~。

だが、その年齢もきっと人によって違うのだろうと思う。5歳で分かる人もいるだろう。死ぬ直前に「ああ、こういうことか!」と思う人もいるだろう。自分のマニュアルは自身の年齢に沿っていて、誰のものでもないから、気にすることはない。こうやって書いていることすら、意味の無いことで最初から注意事項に加える必要ない人もあり。人って様々だ。だから、私が若い頃耳にした言葉でさえも、興味も湧かず必要もなく、ただ通り過ぎる人もいるのだ。それでいいのだ。自分が今感じることに向かってそのまま生きるだけでいいではないか。・・・誰に対して言ってるんだろうか。結局、自分に対してのみ有効な話であり、書いても書いても意味の無い話になっている。

私は自分の取り扱いが上手くなったことで生きやすくなったが、それすら意識せずに生きられる人もきっといるのだろう。良いな~。この世界は広い。最近は書けば書くほどに自分の人生、たったひとつなのだと感じる。

では今日はこの辺で。