スーハーではなくハースーで

だんだん普通の日々が続いてきた。新学期が始まったせいで、周りが静かになって来て、人の群れともそうそう出会わなくなる。生きている生活リズムが違うのだから、そりゃそうだ。平日の昼間は学校等が始まって、住宅街は空っぽだ。入学式も始業式も終わって、車は走っていても子どもが走っていることはない。

なので、近所に新しく出来たパン屋へ出向く。やっと買えた。先月まで春休み等の休日だったせいか、昼間に行ってもすでに売り切れの日が続いていた。今日は平日だからきっと買えるはずと思ってはいた。それでも早めにと思い慌てて着替えて買いに行った。ついに買えたのは良かったが、家を出たついでにボランティアの演奏会ポスターを貼る予定だったが、すっかり忘れて家に戻ってしまった。食べてから貼りに行くことになっていきなり残念感が漂う。まあ仕方ない。

美味しいか、早速食べてみる。食感はパリパリのクロワッサン。でも味があまりしない。3種類買ってみたが、すべて味が同じ感じ。バターの風味や香りもなし。なのにパリパリの歯ごたえはとてもある。家族に「パリパリの食感で味がしない」と伝えると、そのパンを食べた感想コメントの中に、食感を売りにしているような写真付きの詳細なコメントがあるとのこと。きっと関係者だ、と言う。だとしたら、ねらい通りのパンだ。でも、きっと自分はもう買わない。自分がもしコメントを書くとしたら、「パリパリの食べ応えのある食感で料理を邪魔しない味」。私はいろんな味の組み合わせが起こり得る味がいいなぁ。添え物としてのパンはどちらかと言えば要らない。料理や飲み物の味に合わなくても、単体でそのまま味わって食べられるものがいい。家族がパンをかじって食べている音がいつまでもバリバリと聞こえて来た。白菜とかお漬物食べてる?みたいな。パンを食べている音には到底聞こえない。それぐらい食感はバッチリである。

パンを食べ終えたらかなりお腹がいっぱいになり、散歩がてら町内掲示板にポスターを貼りに行く。仲間に頼んでいたこともあって、すでに貼っていてくれていたところもあるが、雨が続いたせいか貼られていないところも多かった。大体、どこに掲示板があるのか、把握している人が町内にどのくらいいるのだろう?自分の活動範囲が広い割には身近なところに5か所ほどしか掲示板が見つからない。ひとつはガラスの扉に鍵がかかっている風、になっていて素通りしそうだった。ガラスが重なっている隙間から雨が入り込んで、中の貼り紙が濡れてボロボロになっているものもある。掲示板ひとつとっても、様子がいろいろだ。町内と外との境界線がどこか調べながら歩いて、その境にある掲示板が隣の町内の物だったときに、大きさの違いを感じた。うちの町内の掲示板の方が大きい、中の掲示物が更新されている、複数枚合って内容が豊富だとか、急に自分たちの町はいいなとお里自慢意識が出て来た。

隣の町内と結ぶ川沿いの橋があり、そのいくつかが隣の町内となっていることも、「きっとあちらがお金を出したからなんだ」と隣の町内が橋にまで境界をやたら強調して意思表示しているんだな、となぜか勝手に想像して不満になる。どうでもいいことにこだわっているんだよと言いながら、自分が一番こだわっていた。ひとまず橋の上ですら町の土地の一部なのだということがわかった。土地が広くなるときっと何か税収とか、人の動向とか統計とかに作用して何か違うんだろうな~。どうでもいいことだが、自分の町内の境界が、もうふさがれてしまっていて目には見えない川に沿っていることも初めて知った。こんなところに川があるとは。全く知らなかった自分に驚いた。ぶらぶらと何かひとつ目的を持って歩くだけで気が付くことがあるものだ。また違う境界線を探しに行きたくなった。

明日はまた美術館に行く。アートは他人の生命力をぶつけられる。エネルギーを吸い込むか、吸い込まれてしまうか。戦いのようである。なぜそんなに自分が奪われる体験をしに行くのだろうか。刺激を受けるって一体何のためだ?思考を止めないでいられるようになのか。自分の感覚に飽きが来ないようにか?何もわからないままだが、明日また他人の表現の海の中で溺れる予定。自分が息が出来ないことも体験する価値はあり。

では今日はこのへんで。