トキントキンの角が折られるか砕けるかもしくは何かにぴったりはまるか

ペーパーレスになることが増えて来る。これって全て電子化するのが当たり前の世の中になるのだろうなぁ。少しずつだけれど、着実に変化して行くのだろう。ポイントを付与する等、今考えられる「お得」のようなものを差し出されるから普及して行くよう自分もその仕組みに加担させられて行く。お得を手にするとラクになるのだが。だがぁ~である。

来年度から子ども持つ親への支援内容の情報も紙ベースではなくなり、母子手帳発行時にスマホにアプリを入れて受け取るようなサービスに変わるような話を聞いた。こうやって、ペーパーレスを進めて行くのだ。福祉系のところでも、今まで自治会の回覧に挟み込んでいたような広報のような物もペーパーレスになるので、配られなくなるよとも聞いた。自分から欲したり、必要に迫られたときだけ手にしたり、そのことに関係のある人だけが耳にする情報になって行く。それって大丈夫なのだろうか?ただでさえ、嗜好に合わせた世界になりつつある気がしているのに。知りたくない情報も溢れているとは言え、溢れたところから取捨選択をして行く作業も大事なんじゃなかろうか。自分にとっての選択もなく、目にする機会もなく、大事なことを知らされないまま、これからは過ごすことになるような気がしている。

例えば物を持たないような少数派になっている人はどこでその情報を手に入れることが出来るのだろうか。国民にして欲しいこと、というのがあったときに、全国民が平等に情報を得るためにスマホが必要ですよと言うのならば、提供してくれないとな~と思う。提供が無いならば、情報が手に届く仕組みがあったらいいのにと思うが、そのひとつの方法が紙ベースでのお知らせだったんじゃなかろうか。予算を削れるとか紙その物の消費を減らすとか理由はあるのだろうけれど、果たしてその予算はどこへ使われるのか、紙の消費を減らして実際何を使うことにしたのか。やはりいろんな事業案や会計案等は見ていた方がいいのだろうなぁと思った。国会もそう言えばやっている!注目した方がいいのだよなぁ。

今日はボランティアの定期的な会議に出て、ある企画の場面でタブーかもしれないことも言って来た。波風立てて来てしまったか。どう捉えられたかわからない。私の言い方も上手くないのでねぇ。けれど、波も風も立てないと動かないものだろう。思いがけないことを言われたと思っただろうか。だったらすごくいい。波風立ててるのではなく、立てられていないかもしれないから。無風・凪かもしれないのだ。正直なところ、波も風も遠くまで届くことは無理だろうと思っているから、だったら言っておいた方が良いなと最近は思う。波も風ももっと強い物に当たって砕けて小さくなって行くのだろうから、誰からも無くなったように見えるだろう。自分もそのうち忘れてしまうかもしれない。けれど、それでもいいのだ。今何か届かなくても、「言ったって駄目さ」「おかしいな」「ん?」「どういうことだろう」等々、いつか小さなかけらがココロに刺さってて、その言葉を忘れてしまっても、急にふと何かの感情を思い出して何かを考えるきっかけになるはずだ。あの場にいた人たちが家に帰って夜になってふと思い出して、他人のことだと思わず自分のことだと思えるといいな~。何かを思えば小さな何かが変わって行く。

何だかんだ言うだけ、の人も少なくなって来たなあと思う。この当たり障りの無さが蔓延した世の中って何だろうね。ちょっと気持ち悪く感じている。他人を許さない人が増えたから、言うことで何かを失敗したら生きて行けないんだろうか。まるで、生きていちゃいけないって言われているみたいだ。怖いなぁ。こちらの角をたくさん作って人に傷をつけるつもりもないが、ちょっとした角を取られて行く。しかも、目には見えない細かいざらざらした表面を持つ綺麗な何かに知らず知らず削り取られて、丸くすべすべになるんじゃなくて、そのままさらに深くエグラレル感じだ。どこまでやられるのだろう。痛い痛い。最後に小さな丸とか点になって行くのか。そこまで保てるのか?キツイね~。

幸い、波風も優しくキャッチする人たちが中にいた。いくつか思うところをバトンを渡し合うように、思ったことを話してくれる人が他にもいたことはありがたい。発言をとにかくメモしまくって書いている職員の姿を見た。きっと真摯に自分のこととして受け止めてくれた気がする。私には何か出来ることがあるとするなら、相手の呼びかけに対して、自分がどう思うかというのを今後も正直に答えて行くことだなと思う。ああ真面目な一日を過ごしてしまった。明日はボケボケしよう。

では今日はこのへんで。