ここからが進まない

早く起きたわけでもないのに、なぜか時間がゆっくり進んでいる気になる。気分的にはもう午後になっているような気でいたが、まだ朝の10時とか、ずっと時間の進み具合が周りとズレているような気がしていた。時計の秒針はごく普通に動いているはずなのに、感覚だけが進んでいて、実際の時間はとてもゆっくり。こういうときは急に時間がたくさん増えた感じがして、いろいろやってみようと思える。ピアノを弾いたり、読んでいなかった本を読んだり、目についたところをささっと掃除をしたり、食べたかったスコーンを久しぶりに作ってみたりした。気乗りしなかったことも進む。特に何か効率よくやろうとかスピーディに出来る方法を考えてやっているわけではないのに、事がサクサク進む。何だか得をしている気分だ。

もしかしたら、と思って想像したのは、昨日までの「歩くこと」が作用しているのかもしれないということだ。歩くというだけで脳の活動とか体そのものの動きが良くなるような話を聞く。細胞や神経伝達とかが生き返っているのかもしれない。ピアノを練習することですら、疲れ方が全然違ったように思う。神経伝達のときに起こるストレスがものすごく低くなるのだろうか。だったら、歩くのは昼間休むよりもいいのかもしれない。休むのは夜だけでいいかもな~。

昨日あんなに動いていたのに、昨夜はどうしてもピアノが弾きたくなり、夜中に1時間ほど鍵盤に向かっていた。気が済んで、その後パタッと眠って、ぱっと朝目覚めた。焦ったり我慢してキリキリ、イライラしているわけではないから、そのときそのときに思ったことをやって気持ち良く毎日生活出来たらいいなと思う。日々昼間に眠たい~とか忙しい~とか、そういうちょっとした「耐えること」がない状態で、進む感じがいい。と書いていて、ここから2週間は毎日何かしら予定が詰まっている。明日は予定がそれほどあるわけではないから、本を読めそうだ。ゆっくり出来ることを望む。(自分で決めればいいことだ!)

4月も半ば。家族がまだ暫く家に居るが、それももう折り返し地点になって来た。また一人の生活に戻るまで、何をしているのがいいのだろう。合わせ過ぎず、マイペースだけれど、せっかく一緒に過ごせる時間があるのだから・・・とどうしても二人でつるむ遊びを考えてしまう。まあ、それはいいか。二人とか人と一緒じゃないと出来ないこともあるのだから。唯一、1日の中でブログを書く時間だけ、自分に向き合っている。少し違うか?人がいて、他人の方へ向いているからこそ、より自分に向き合いたくなるのだ。人がいてこそ、自分という存在があるというのをより感じる。長い時間一人で過ごすと自分という存在がだんだんとぼやけて、確固たるものに思えなくなってしまう。普段生活していて、たまたまそうなっていかないのは、誰かが自分を認識してくれる「応答」みたいなものがあるからなのだろうなと思っている。これからもたまには人と過ごすことをやめないでおこうと思う。

ブログもある意味、自分以外の人がいるであろうと思うことで自分を認識出来るツールになっているかもしれない。ブログは自分のために書いているが、人に向けていることには変わりないなと。人がいて、自分がいて、だ。人を見ている自分がいるということで、自分がいることを認識することも出来る。まあ、ただのAIとかで、この画面に見える文字が勝手に打ち出されるだけの物で、誰もその先にいないことがあるかもしれないが、そうだとしても今は騙されていてもいいのかもしれないなと思ったりもしている。きっと、誰もいないように見えるよりはマシなのかもしれないなと思うのだ。たった一人の生き残りの人間になったとしたら、文字の中にかつて生きていた遠い人類の記憶のようなものに助けられて、自分はまだ生きられるのではないかと思い始めた。読書なんて、古い人類の記憶や思考を辿っているものじゃないか。そこに今は存在しない人だとしても、かつて生きていた人というだけでも何だか温かいものを感じるじゃないか。そんなことを今夜は思った。

では今日はこのへんで。