私の何もかもがフェイクですと言う実在

外は嵐だ。温度も暖かくて熱帯にいるとはこんな感じだろうか。いつも着ているジャージが暑く感じられる。昨日の夜、嵐になる前に家族が帰宅し、お土産が食卓テーブルにたくさん積み上がっている。もし何かあっても暫く生きられそうな位の量だ。私が先日食べたいと言って買って来てもらった京都の八つ橋も大分数が減って来て、残すはあと一箱!というところでの静岡土産の山。こうやって書いてしまうと住んでいるところがわかってしまいそうだなと思い、なるべく地名を避けて来たが、今日は書いてしまった。あちこち動き回る家族のお土産はそのうちどこまでも続くはずなので、書いてしまってももういいかなと思い始めている。

で、今朝は静岡のお土産のことである。パッケージにある観光協会の文。読めない。漢字がところどころ難しい。読み方を知らない。文字は知っていて意味はなんとなくわかるとしても、縁が無くて読み方に慣れていないから読むには調べるしかない。朝ご飯を食べる前からお土産を食べ始め、家族に読み方を調べてもらうことにした。今は即時簡単に調べることが出来るのだから、例え明日忘れてしまおうとも、今知りたいのだから今調べるのだ。少なくとも自分の小さな満足は得られるはずだ。「因」「搗」を読めて少し嬉しい。明日になったら使わないからきっと忘れてしまうのだろうけれど。忘れたらまた調べる楽しみがあるじゃないか~と思っている。人生の中で知っていたことも適度に忘れて行くからこそ面白みも増すのだ。

そういう意味では、忘れることが容易くなるような仕組みが今はなくて、否応なしに思い出させられて困るのが、あちこちで使われているAIの機能だと思う。違うかもしれないけれどそう思っているから、そのまま書き進める。さっきまでの自分の似たような好みや関心事を記憶して探して来ては、ずっと変わらずに押し付けて来る。もうこれ以上知りたくないんだ!と思っているのに、さも親切にこれ好きでしょ!と続けて来る。もう、気分を変えたいときはスイッチを切るしかない。

人との付き合いもそういうものだとは思う。相手のことを「知っている」のは過去の記憶の情報である。それを今も同じようなままだと思って、話しかけてしまう。本当は一緒に今そこにいるときでさえも、相手は変化し続けているにもかかわらず、こちら側は気分や気持ちが変わったとはそうそう思わないで、自分の中の古い情報で相手に接しているはずだ。けれど、そのことを知ってか知らずか、これ好きでしょ?とかこれ好きだったよね?なんて言い方をしている。これはすごい。自然にやっている。

だが今のところ、AIからそういうふうには聞いてもらってないようだ。AIと人が違うのは「?」を大事にしていることではないかと思う。人はどこかでお互い違うものだと認識して、相手のすべてを知らないと思っているからか、相手のことをお伺いする姿勢で向き合い、付き合っている気がする。たまにそのことを忘れて、押し付けがましいとか、自分のことをわかったつもりになるなよとか思われることもあり、付き合いがちょっと上手く行かないこともある。付き合いが上手く行かないときは、下手なAIと同じなのかもと思ってみることもいいのかもしれない。下手なAIを見て学べ、だ。今のところだ。

今のところ、と書いたのは、上手いAIはきっと人よりも学びが広く深くなって、すごくいい人間を目指して行くのだろうと思うからだ。そうなったとき、きっと誰も気が付かないだろう。今だってブログでさえ、人が書いていないものがあるじゃないか。何でも上手なのだろう。今は自動音声のテレビのニュースの時間があって人が読んでいるわけではない。電車のアナウンスだって、出た当時はもっと人っぽくなかったが人っぽくなってきた。気にならない位にすでに存在している。というか気にもしていないのではないだろうか。

私は上手なものというより、その先に人間というものがあると思えるからこそ何らかのものを求めていると思う。そこにあるものを介して人を求めているんじゃないかな~と思っている。小説だって、面白い架空のものを楽しんで行くことの先に、作者に興味が出て来る。作者がいない存在だったとしたら、その時点で私は興味がわかないかもしれない。騙されることは大いにあるが。ピアノだって街の中でピアノが置いてあるところで自動演奏で弾かれるときより、下手でも人が弾いているときに足を止める。メールだって、画面に映し出されるただの文字なのにその先に人がいると思えるからこそ、もらったときに嬉しく感じるものなのかなと思う。その先に人がいてこそ、かなと思っている。その先に人がいなかったら、虚しさを感じるんじゃないかなと今も思う。

そうは言っても、いつか本当に騙されて、実際には人なんか一人もいないよ~という状態に置かれていることを想像する。そう、騙された、という言い方がぴったりかもしれない。これからはそれで一生を終えることもあるかもしれないなぁ。寂しくなるのか、ならないのか。気が付かなければ平気だろう。じゃあ、気が付いたらどうだろう。恋人に二股かけられていて、私は本命の恋人ではなかった、私だけが思っていただけなのだ、みたいなことに似ているような。夢を見てひとりで満足出来る人生もあるからなぁ。どうだろうなぁ。所詮自分の頭の中で生きている生き物だしな~。騙されたと知ったとき、どう思うのか。人から騙されると記憶に厚みが出るが、AIとかに騙されたら空しくて虚しい。相手の姿はなく、自分の行動の記憶だけが残りそうだ。

文章を読んでこんな面白くない文章を読んで損した!と思ったとき、その「あて」はあるのか。AIのときはどうだろうか。宛てのない当てはどう感じるのだろう。人に向ける方が私はいいな~。

では今日はこのへんで。