気の向くまま風が吹く先へと書いて行けば、きっと今日はこのへんだ。

風がない日。穏やかに日差しも出ていて暖かいが、日陰の止まったままの空気がとても冷たい。その温度差に、立ち話をしていても場所を移動したくなる。

ボランティアの会議の後、少し町内のメンバーで打ち合せがてらランチを食べに行った。一人、また一人、孫の話が出た。その中で片手の手の平に乗る位の大きさで生まれた孫が今年小学校を無事卒業したという話を聞いた。生まれたときに本当に小さく、しかもお腹の中にいた期間が短かったそうだ。600グラムに満たない程度。医者からは、生まれて育ってみないとこの子に何が出来て何が出来ないのかは全く分かりません、と言われたそうだ。産み、育てた家族で障害を乗り越えて来た話もたくさんあるにはあるのだろうが、今日一番のメインは卒業時の文集に載せられた内容のことだった。

そのお孫さんは、文字がマスに当てはめて書けないそうで大きさの調整のようなものが難しいらしく、実際に目にしたのは教師がパソコンで打った文字だったが、内容は思いやりについて書かれていた。家族から教えてもらった「思いやり」と「ニコニコすること」をこれから大事にして中学生になるとのことだった。直接的な言葉はなかったが親への感謝の気持ちが伝わって来る。同席した人たちの目がうるうるになり、読む声が詰まる。それを初めて手に取った家族ならなおさら感極まっただろう。無事に卒業出来たことがものすごくおめでたい。私も嬉しくなった。

体のことを言えば、気管切開もしていたから言葉を発声するために、何度も塞ぐ手術を受けて、今はかすれ声ではあるけれども声を出して話すことも出来るようになったと言っていた。何度痛い思いをしたことだろう。まだ年齢が二桁になったばかりで、何度も痛みに耐えて生きて来ているだなぁ。避けられるものなら、避けて通りたい。けれど、受け入れて耐えて、声を出すに至ったのだ。素晴らしいと思ってしまう。

しかも、気管切開をしている子どもたちは以前は医療行為が必要だからという理由等で小学校の普通級への入学も難しく、親たちは悩むことが多いような時期もあることは他の人からも聞いていたし、ニュースでも耳にしたことがある。そのお孫さん家族は、同じようなお子さんを持つ家族が集まり、子どもたちを連れて市議会、県議会にも声を上げたことで実際に変化を起こしたらしい。そのお孫さんは数年後、問題なく入学が出来たことを話していた。そしてこの卒業に至るのだ。声を上げ、行動をわざわざしなくてはならない、という手間がかかっている。その労力は大変なことだと思う。入学ひとつとっても、簡単に出来るものでもないのだよなぁ。

また、体は小さめだが、がっしりしていることも写真を見せつつ話してくれた。体がどちらかと言えば大きめだ。それには理由があって、満腹中枢が機能せず、食事をどこまでも取り込んでしまうとのこと。お腹一杯になることがないため、自分では食べることをやめられない。そのため今でも食事をするときは、一人だけお膳に量を予め決めて出すのだと話していた。

これは想像でしかないが、食べたい食欲があるにもかかわらず、食べることを体のために常に制限されるということじゃないか。だとしたら毎回苦痛なんじゃないかと思うのだ。今の私と比べたら、ものすごい我慢をしながら生きているということになる。私は食欲が「満たされる」ということを感じられるが、その子は永遠に食事で「満たされる」感覚を持つことはないのだ。私自身の感覚だととてもつらいなあと思う。

身近にまだ若い小さな人間が痛みに耐える人生を送っているのである。痛みに耐えるのは当たり前ではない。その痛みを与えられてしまった者である。自分から望んで選んだ痛みではないのだ。それ要らないと断れるものでもない。与えられたものに向き合い、ちゃんと自分から受け入れて引き受けて、耐えているのだと思う。私はその子とその家族の強さに圧倒される。

苦もある中に喜びもある。ずっと車いすが必要かと思っていたら、歩けるようになったそうだ。自由に動けるって幸せだよなー。「こんなことが突然出来るようになるんだ」と目を大きく開いて話す姿から、たくさんの驚きと感動の日々があったことを感じた。

出来るようにはならないと思っていたことが出来たり、感じる感じていないの区別も、外から見てわかる部分もあるけれど、本当のところはわからないんじゃないかなぁと思うが、家族はそれでもよく見て、知って気が付いて、きっとこうなんじゃないかと思って、試行錯誤の連続の日々だろうなぁ。素直にすごいなあと思う。

人とか生命の力って本当に不思議である。突然出来るスイッチが入ったりオフになったり様々である。それなのに、人は何だかんだと自分で「これが出来て当たり前」みたいな人間を想像しては、自分や他人にまで当てはめてしまう。そして出来ていないことについて、いちいち不満を述べたり、悔んだり悲しんだりする。あ~、なんて面倒くさい生き物なんだろう。

この話で出て来た医者の言葉は、お孫さんだけではなくて、生まれたときに誰にでも当てはまる言葉だ。ある程度年月が経ったとしてもだ。人は死ぬまで育ち続ける。何が出来て何が出来ないのか。未だに分かりませんってば、という感じで私はいる。誰も見続けてくれるわけでもないので、自分で気が付き続けるしかない。もー、大変だ。

それはそうと、もう一人のお孫さんの話。「とーってもかわいいのよ、だけど変わっているの。」保育園で先生から普通学級は無理だと言われているらしい。外では集団の中に入らず、たとえ自分の家に来ても家族の輪に入らず、どこか押し入れとかに上がって隠れて一人過ごしてしまうとのこと。絵をずっと描いている、目を合わせることも出来て表情豊かだ、話せば面白くて、自分にとってはただただかわいいのだと。

みんなからは多動なのかねぇ、と言われていた。多動で心配?話をしている人自身が一番落ち着きなくいつもソワソワ。話しているときも話していないときも動いている。確かに落ち着きはないけれど、表情豊かでかわいらしい人だ。きっとお孫さんもそっくりなんだろうなぁ。ボランティアして人からも信頼されて、社会の中で穏やかに暮らしているんだから、結果こういう風になるんなら何も心配なんてしなくていい、ダイジョブ。どんな場所でも可能。そんな気がする。

その子の父親と祖父が支援学級に行くのを反対しているらしい。行くのは本人なんだけどなぁ。親次第で人生決まるってのは良いも悪いもあるよ~。結果は育ってみないとわからない。だから難しいのか。ふぅ。

書いてみて、長くなってしまった。では今日はこのへんで。