テキトーな中に適当な味わい深い家族の歴史あり「イイ塩梅大納言記」より

春の嵐が終了したと思った途端に、家族から連絡が来た。家族がまた暫く家に居るという生活になる。これは違った嵐が吹いてくるぞ。一人のんびり暮らす生活の終焉か。だが、結局今日明日に来る、ということではなくなったらしい。彼岸でおはぎを作っていたから「おはぎ食べる時期を逃したな」と、余計な連絡を入れた。「あぁ」と残念そうな返事が来た。そんなに残念だったか。餡子はあるからまた作れる。もち米も少し足りないかと思って先日買い足してある。高い和菓子店でこの時期買うというならこの時期しかないだろうが、自作の餡子で米を炊けば出来るのだから、何の意味もない連絡を入れてしまったような。

けれど考えてみたら年に3回しか作っていない。春、夏、秋の3回。好きなのだからもっと作ってもいいだろうに、何かきっかけがないとおはぎについては作らないのだなぁ。餡子は度々作って冬場に限らず常備しているし、お赤飯もたまに作っている。なのにおはぎは普段作っていない。小豆という豆ともち米&うるち米(塩入)のコンビ。何が違うのだろう。こんなに作っている回数が少ないとは自分でも気が付かなかった。

違いがあるとしたら、豆である。常備している餡子については適当に小豆を買っては作ってしまう。けれど、その年3回のときに作る豆は必ず大納言を買っている。少し値段が高い。いつも買う店では余程割引があるときじゃないと高いなと思ってなかなか買う行為に至らない。最近さらに値段が上がったせいもあって、大納言を買うのに躊躇するが、この年3回に関しては必ずと言っていいほど買っている。私が若い頃、おはぎを遊び半分で作り始めたときに大納言を使って作った。そのとき、おはぎを美味しいと食べてくれた家族がいた。その家族が亡くなった後、毎年3回必ず届けて供えている。ほとんど習慣のようなものだ。お供え物、として作る場合は大納言で作る、という刷り込みが自分にはあるのかもしれない。大納言で作ったおはぎは自分のための物ではないのだなぁ。だからか~。書いていて知る。

やはり特別なときじゃないと大納言は買わないのだな。お赤飯を作ったときには赤飯用と書かれたササゲより赤飯用の大納言が安くて、量もちょうど良かったから買ってしまったが。自分のために大納言の豆をさらっと買える日が来るだろうか?いや、やめよう。何らかのお祝い事とかにだけ買うことにして、普段は小豆にしよう。どうせなら特別感を取っておこうかと思う。特別感とか贅沢みたいなものは慣れてしまったらその感覚を失くしてしまう。もったいない。

ここまで書いていて「おはぎ」と書いていたが、場所に寄って呼び名も違うだろう。読んでいてわからない人もいるかもしれないし、それ違うよ~と思っている人もいるかもしれない。ハギの花が咲く時期だからおはぎと呼び、牡丹の花が咲く時期だからぼた餅と呼ぶという話もあったと思うが、自分の中ではおはぎと言いながらぼた餅のイメージでいる。ぼた雪、ぼた餅という、音から受けるだけの形であり、感じである。見た目サイズは手の平より大きな代物である。きなこは無し。絶対に餡子がどーんと乗っかっている物。きっと呼び名も含め、どこの風習でとか、どんなふうにとか、決まりがもしかしたらあるのだろうけれど無視している。私が決めた私のマイルールである。心の中でぼた餅であり、外で人に言うときはおはぎであり、きなこは無しで、とても大きいもの。今日ここに豆は大納言を使うという項目が増えた。そして我が家のおはぎはより一層、特別なおはぎになって行く。ふふふふ~。

だからと言って、他の家族に強要しない。みんな勝手にいろいろ作ればいいし、自分の中での家族の思い出や歴史に刻めばいいものだと思う。我が家のおはぎはこういうものだから、こうして!と言うより、自分で作って新しくなっていって、みんな違う方が面白そうだ。集まったときにそれぞれ持ち寄ってみたらいろんな物が食べられていいかもしれない。私はそれの方が断然いい。若い二人が結婚して、お互いが相手の味に合わせるってのもいいと思う。何でもいいのだ。楽しめて幸せならどんな選択もありだ。・・・などと今勝手に想像していたりする。

ふと思い出した。そう言えば、砂糖も毎回コレと思って、今は同じ砂糖を使って作っている。亡き家族には今とは違う砂糖で作ったはずだから、今の味と少し違うかもしれない。まあそれこそ、塩梅もその時々で違うから、実のところ毎回違う物が出来てんだろうなぁ。しかも年齢を重ねて自分の味覚も変わって来ている・・・。結局はどれもどうやっても同じ物はひとつもないな~。いつだってテキトーで適当だということが判明。

では今日はこのへんで。おはぎ食べます。