どうだ、他人の目に映る私は。

桜が咲いて来た。少し遠くの山肌にピンクに近い淡い色があちこちぼんやりと見える景色になって、桜が咲いている木々が増えたのを感じた。近くの寺の桜が手品みたいにボンっと咲き始めたのに気が付いたのは昨日の夜。本格的に春の宵を迎える。ここのところ気が付いたら雨が多いので、晴れ間になったら何をしようかと想像して今から楽しみである。今夜も雨。明日には晴れるのか?

家族が家にいる。家にいると言っても、ずっと家にいることもなく、思いついたところへ行きたいときに遠出していて、出て行ったと思ったら帰宅するというのを繰り返している。元々旅しているような仕事に就いているのに、休みの間も一定の場所にいない。家族の習性なのだろうなぁと思う。たまに一か所に留まると、ものすごくだら~と動かないのに、動き出すとずっと動き続けるような感じである。家族が家にいると自分のペースで動くことが出来なくなる~と私は想像して勝手に困り始めてしまう場合が多いので、こちらから家から出ていてくれと求めることもなく、あちこち出かけて行ってくれていてとてもありがたい。自分の数日前までの同居生活の心配はどこへやらという感じだ。それに自分自身も会合だ何だと外に出ることも多いので、結局は思っていたよりも適当にそれぞれが別のことをやれていて、たまに合流もあって、お互いそれほどストレスをためずに今のところ過ごせているようだ。

ただひとつだけ困ることがある。一緒にいる時間があることで、お互いの鼻歌とか何度か口ずさんだ歌がお互いを苦しめる。ずっとお互いの歌が頭の中で鳴り響いてしまうのだ。私が合唱の練習などしようものなら、モノマネのように同じ旋律を家族が歌い始める。私が聞き出した何らかの音楽が流れていると、これまたすぐに覚えて横で口ずさみ始める。私がどこかのタイミングで口ずさんだら最後、こちらが頭を空っぽにしたいと思っても、ずっと横で無意識に家族が歌い始めるのだ。人工的な音源ならばスイッチを切れば済むことなのに、こうなると物理的に距離を作らないとお互いの歌が作用し続けて刺激して終わりがなくなる。音の切れ間がなくて静かにならず、うるさいのだ。まるでインコが言葉を覚えてずっとさえずってしまうかのように、ずっと歌う。こればっかりは未だに困ってしまって、気になるときはこちらから離れてみたり、離れてもらったりしている。家族の方も「やばいよ~」と言っている。今のところこの解決策しかない。

これを書いているときも、近くで他のことをしながら一緒の部屋にいるけれど、ずっと口ずさんでいるので、仕方ないから離れてもらった。人と生活をするというのはこういうひとつの気にかかることを、ただひたすら我慢するのではなく、感じたり思っていることを相手に伝え、どう快適に暮らすのか自分も相手も折り合いをつけて行く作業に、日々取り組んでいくことなのだろうなと思う。多少家族だからという甘えもあって、自分の言葉が直接的に相手に伝えてしまうところは申し訳ないなあと思うのだが、感情的に一方的に話しているわけではないので以前よりはマシかもしれない。まあ、少しずつ。自分の変えられる部分を知る努力はすることだ。人と付き合うのはまずは自分を知ることなのだな、と家族や身の回りにいる人たちと過ごすことでわかってきたように思う。こんな年齢になってやっとである。

それでも、今の自分は自分の人生で一番若いのだ。まだ人生が続くならば、いつだって今日が今が若いのだから、気が付いたりやり直したり出来るのも実感としてわかってきた。諦めるのは死んでからでも出来るだろう。生がある間はいろいろやってみようと思う。

他愛もないことを書いた。では今日はこのへんで。