忘れた頃にやって来るのは災いだけではなく、ああこういう自分だったという気付き。そして赤くなる。

人と一緒にいる時間を優先すると、物を考えなくて済む。簡単に目の前のことに夢中になるからだ。そういう意味ではずっと物事にこだわることもなく家族と過ごして一か月ほどになる。それでも文章を書く作業を進めて来て、この時間だけほんの少し自分だけの時間になり、今日1日の中で気になったことを振り返っている。家族が寝た後に時間を作っているので、結局は頭がぼんやりして、全然機能しないことも多く、一体何を書いているのやらと思うこともあり。それでも自分の言葉を綴らないと、と思う。

自分に集中する時間=人といない時間を作ることなんて、なかなか難しい。昼間学校やら仕事やらで動いていると、結局は半分は人といる時間となっている。仕事や学校などない私であっても、家族が家に来たときは家族といる時間を作って優先させてしまうし、友人等人と会う時間があれば会いに行ってしまう性質だから、より時間が無くなる。寝る時間を可能な限り、ちびちび削りながらである。人と過ごす時間を削ることも出来るが、人生の中でひとり物を考える時間と人と一緒に過ごすことが出来る時間を比べたら、自分はこれから人と過ごす時間の方が圧倒的に少ないと思ってしまうので、削りたくない。ってことは、やはり自分は自分に向き合う時間が必然的に少なくなる。今後はどうして行きたいのだろうか。

ちゃらんぽらんと音がして、あっちにゆらゆら、こっちにゆらゆら流されて、影響されやすい心でいいとは思っている。けれど自分と向き合いたい。たぶん面白いと思える興味が今は自分なのだ。人と付き合って、相手を見て面白いなあと思っていながらも、どこまで行っても人と頭をくっつけて、おでこから考えを溶け合うようにわかり合う・・・ことはないわけだから、ならせめて相手を知り、自分がどんな反応をしているかという自分のことをさらに知って、思っていることを相手に伝える努力を止めたくない。人を知ること、自分を知ること。これが面白いのだから。

最近、このことについての日々のトピックを書いておこうと思いながら、全くダメだ。眠いわけでもないのに、頭が回らずすぐに怠けよう、文章を終わらせようと急かされている。今も自分のことだというのに、である。明日目が覚めなかったらどう思うのだろう?書けなかったね~で、終わるだけだ。だから今すぐ寝てもいいのである。なのに書いている。ここで、思考というものと行動はちぐはぐで重ならないものだなと思う。どこかで思考さんと行動さんという人が一緒にいながら別のことをそれぞれ進めて行くようなものだ。人は考えることが単体でありながら、どこか総合体なのだなと感じる。意識と無意識?それもあると思うが、意識していても意外と統率が取れているとは限らない。複雑な生き物だ・・・。私だけか?

ところで、と唐突に思い出し書き始める。また「そろそろお暇の時間ですが・・・」と自分の書き続けたい意思とは裏腹にまとめろという指示があるような気になる。きっと、このまま書いていても今日中に終わらないことは目に見えている。あ~、なんてことだ。駄文を書き続けた。ただ思っていることを書いている。そばで眠っている異性がいて(いないけど)、夜遅くに話していたらただのピロートークか。これは、もしかしたらそんな気分なのかもしれない。ひゃ~。やっぱり私は夜に向かない。気が付いて、恥ずかしい限りだ。明日は昼に書こう。

では今日はこのへんで。おやすみなさい。

残念ですがお見せ出来ないものがあります

家族以外の人といる一日。朝9時から急いでボランティアに出かける。月に一度の地域の高齢者が集まる食事会の開催だ。昨日もそのための買い物に出かけているから、活動する仲間と二日も続けて顔を合わせる。イヤな気分でその集まりに出かけることが今までないから、ありがたい。年齢も様々、基本的にボランティア精神も多めの気配り上手、お話上手の優しい人たちの集まりだ。気遣いを相手に知られずにする人たちだから、私と接して「この人は仕方ないネ」と軽く肩をすくめられていることに自分だけが気が付いていないかもしれないが、そうだとしても自分は何も力まなくて済んでいる。ホッとするひとときである。笑いながら活動出来て、こちらの不器用でさえもなごみの一部となる人とのつながりを与えてもらっている。

参加者なのか違いがわからないような後期高齢者になっているはずの人も、中心になって活動を手伝ってくれている。いつも何か作るのが好きで、おしゃべりが好きで、料理好きでもある。こういう好きなことがたくさんある人と付き合うのは、好きなことを喜んで、ただ受け取って喜ぶだけで、お互いに幸せになれるからとてもラクである。今日も手作りの美味しいぬか漬けをもらった。片付け終了後の時間に、緑茶を飲みながら次回の食事会の打ち合わせをしているときは、ただ食べているだけの自分。それでも輪を保つのに役立つ協力者になっているらしい。とてもありがたい関係である。

自分が住んでいる街は高齢者が多い。今日食事会に参加してくれた97歳のご婦人は朗読を披露してくれた。目も耳も歯も問題なく、長生きしている。私なんかよりもずっと通る声でハキハキ話している。腹筋も違うのだろう。彼女は「親から長寿遺伝子をもらっただけ」と笑っていたが、顔の筋肉が何も衰えていない様子。顔のしわがないのはきっとそのせいだろう。健康で動けて話せて学ぶ意思もあって。一体このままどこへ行く~。

正直なところ、想像もつかない。今日読んで下さった詩は、90代で詩人になった人の作品だった。同年代が書かれたものを読むというのは、その年齢まで生きてみないと感じないこともあるのだろうから、それこそ一握りの人しか味わえないことを彼女は手にしていることになる。知りたいなら生きねば!である。私自身も生きてその境地に立ってみないと、と思うがそれは途方もない時間の彼方にあるのだ。恐るべし。生きて来た時間というのは素晴らしい限りだ。長いこと生きているという高齢者はそれだけで尊い存在だなぁと思う。

私は若いときはどちらかというと自分から高齢者のところへ望んで会いに行くなんてことはなかった。なぜお年寄りと過ごせるんだ?と不思議に思いながら介護職に就こうとする友人を見ていたこともある。必要以上のことはなるべく自分は避けて過ごしていたからなのか、長い間よくわからなかった。今は一緒に過ごして自分の感覚が変わってきたように思う。ここ暫く一緒に度々過ごして来たからこそ、長く生きて来たことそのものがすごいことだと肌で感じるようになって来たのだろう。頭で考えてわかったと思っている「良さ」などは取り払ってしまって、単にスゴイコトダ、真似出来ないと思わせられている。今は少しでも長くそばで関わっていられたらなぁと思う。

次回の食事会の打ち合わせ後、急いで歌の練習に行った。多少疲れもあったが、まだ立って歌えそうだ。歌の仲間や先生が先に練習場に来ていた。なんと、今日は久しぶりに仲間が全員集まって練習が出来た。本当に久しぶりだ。無理を押してでも練習に来て良かった。自分の周りを包み込む違う音程の響きが楽しい。人数が揃うと音の幅の広がりを味わえる。たまに外れる音が聞こえて来て、テンポも狂ってしまうときもあるけれど、みんなで「やってしまったかもしれない」などと言いながら何度でも同じフレーズを繰り返して練習する。熱も入る。楽譜ももう見なくても暗譜出来ていて、あとはどう楽しむかだ。一人だけで上手くなりたいんじゃない。仲間とこうやって今も歌える幸せをこれからも続けて行くのだ。いつかは終わりが来るだろうけれど、今はこの幸せを普通の日々だと思って手にしている。ありがたいものだ。

頭の中で「わかっている」と思っているのではなく、感じているのだなあと思うことが多くなった。感じたいと思ったから感じ始めたのかもしれない。人を含めて何かを理解する努力ばかりしている人生を過ごして来たが、最近では感じる楽しさを味わうことに変わって来た。感じることというのは誰にとっても自分自身一人だけの楽しみである。だから最近楽しいことが多いのだな~。何か体の真ん中にあったかいものがほわ~っと丸く存在しているのを感じる。きっとこれが私の幸せの形かもしれない。お見せ出来ないのが残念だ。

では今日はこのへんで。

隅っこに隠れて関係ない顔していても、地球の空気は吸って生きているから世界の一員です。

夜、眠れずにいた。友人の素晴らしいピアノの才能をもっと人に知って欲しいなあと思っていて、何が出来るだろうか?と考えてしまったのだ。ぼんやりとした頭で寝つけずにいたが、結局は友人がどうしたいかがはっきりしないと解決の道はないなあと思うところで止まった。私があがいても、本人がどこへ向かいたいのか、して欲しいことは何なのかをちゃんと理解出来ていないと余計なお世話になってしまう。もちろん、自分としては余計なお世話、お節介もそう悪くはないとは思っているのだが、いくら考えてみても私には本人のしたいことがはっきり見えていないことに気が付いた。コレって、私に限らず、もしかすると本人の気持ちが相手に伝わっていないことが多いのかもしれない。たまに聞く友人の愚痴の中に物事の進み具合に不満が出たり、上手く行かないタイミングでは、そのことが原因にもなっているかもなんて思ったりもしていた。

ずるずると思いが枝分かれして、こんな感じで気になって眠れるわけがない。それで、一旦思考が止まったところに戻ってみた。シンプルに今の自分が出来ることと言ったら、友人が出る演奏会の宣伝を近くの人にするのみだ。あまり考えても仕事のアイデアも出ないし、その仕事に自分は精通しているわけでもない。裏方の手伝いに来て欲しいと言われると、手伝って来ただけである。大きな力になれなくても、小さな支えになれるはずだ。今後も頼まれたことは快く引き受けよう。よし。

それにしても、音楽家が日本で音楽だけやって食べて行ける状態になるというのは、本当にどうしたらいいのだろう。日本に来るまでは演奏者は演奏のことだけ考えれば良かったのに、今では事務的なことまでやらなきゃいけないと言って友人は嘆いている。楽しそうな企画があっても、音楽以外の準備をすることが負担になっていて、苦戦しているようである。以前は外国じゃないと食べて行けない、なんてことを他の演奏者からもよく耳にした。今も変わっていないのかもしれないなぁ。

自分の身も振り返る。音楽に限らずブログだって、供給側が多くて、受け止める側がいないこともあるだろう。競争で自然淘汰、人の目に入ることがないままということもきっとたくさんあるのだろう。たくさん出て来て、いつしか消えて行く。ごく普通のことなのだなぁ。やらなくなったら、そこで消えゆくものなら、やる気がある間は出来るってことか。

ああだこうだと思い浮かべては書き止めて、まあ大したことのない文章を毎日書き綴っている。それでも、書いておきたい気持ちがある間は続けてみよう。これも実験。文章を書いて自分の需要が他人にあるかないか、それを計るものになってしまったら辛くなるだろうけれど、それでも良いなあと思う。辛いと体験することも自分には必要不可欠だ。どう感じるか、は続けている限り変わり続けていて、どうなるかわからない。自分がどう思って、何を考えて行くのか、自分を外から見ていてワクワク出来る。誰も相手をしない文章を書く行為だって、誰か上手な面白い文章を書く人にとって少しは引き立て役のひとつにもなるのだ。影響をしない人など、いないのだよな~。だから、今日もブログの世界の隅っこでなるべく目立たないように書き続ける。

では今日はこのへんで。

風が吹いたら倒れるかもしれないあばら家にて

10代の頃、度々訪れていた街に寄って来た。地元ではなく、週に一度日曜日に音楽の勉強をしに来ていた街だ。その頃の街は若い人も大人になりかけた人もごっちゃになってたくさん押し寄せ、カオスのようになっていたところ。今は違うようだ。今は外国から来た観光客で一杯で、平日のせいか日本人の若者も少なく、店は閑散としている。しかも何だかわからないからこそ興味津々で思わず入ってしまう様な小さな店はほとんど無くなっていて、大通りは分かりやすく煌びやか、ガラス張りで出来た建物で名の知れた大きな店ばかりになり、背の高いモデルのような人たちが微動だにせず店のドア近くに同じようなポーズで立っている。店は何だか分かりやすさが倍増して入りにくい。たぶん私にも店側にも確実にお互い用がないねと思う場所になってしまった。

どの店も違うようで同じ顔をしている気がするな~と思いながら、通りを一周するような感じで歩き、近場の駅に向かう。立ち止まった交差点で、ふと思う。こんなにたくさんの人はどこへ流れて、向かっているのだろう。街が閑散として活気がないのに、道には人が大勢あちこちから集まり、流れて行く。自分もその一人だけれど、何なのだろうこの街は。土地の人が全くいないわけではないはずなのに、とにかく流れて行く人がそこに大勢いるということで存在をアピールしているような街。虚構で出来たような場所とはこんなところを言うのかもな。何度も来ているはずなのに、初めてそんなふうに思ったことに今驚いている。キラキラしているのに、何もない。少なくとも私にとっては何もない場所なのだなと思った。

自分の街に戻ると、背の低い人の群れがいる。なぜだ?ここはみんな背が低いのか。そうじゃない、きっといろんな年齢の人がいるのだろう。さっきまでいた街とは違う風景。小さな子どもも年を取った人も、学生も、とにかくいろんな人がいる。男も女もヒールの低い靴を履いている人が多かったりして?さっきまでは厚底の人も目に付いたが。夕方にいる、少しだけくたびれたスーツ姿の人たちもいる。ここは帰って来る街なのかもしれない。みんな急いでいるけれど、自分にとってちゃんとした「どこか」がある人たち、その場所へ向かう人たちの群れだきっと。この安心感は何でだろう。虚構ではないからか。私もそこでその人の群れの一人となっていた。

いつもの自分の場所に帰るという安心感はいいよなぁ。帰る場所に人がいなくても、自分のスミカであればいいんだ。寝る場所?ちょっと違うかもなぁ。でも、ただ寝る場所でもいいか。何だかんだいろいろあるけれど、自分で作った帰る場所というのがいい気がする。そういう意味では子どもにとってはまだ与えられた場所だから、わからないかもしれないが。

それこそ、自分が10代の頃は子どもから大人になりかけて、自分の行く場所を探していつもふらふらしていたのだろうと思う。どこに行っても平気だけれど、どこでもない感じのような。つかめなかったよなぁ。実感みたいなものがあるようで、ない。好奇心ばかり先走っては盛り上がるけれど、ここじゃないと後で気が付き、また探す。今も文字にしてみると似たようなことをしているように思うが、もっと所在無げな感じだった気がする。行く場所はたくさんあって、いつまでもここにいたいとは思うけれど、なぜかずっと居ていい場所じゃないとどこかで感じでいたなぁ。今はどこでも居ていい場所になっているけれど、ここに今はいるのだと決めることが出来ている。そんな感じだな。

今日はここで文字を打っていること自体が、何だかほんわか安らぐ。自分で居ることを決めた居場所、今の気分ではホームかな。ホームを持っているということの幸せだと思う。どうか、あの街で彷徨う人も自分のホームにいつか辿りつきますように。ははは、余計なことを書いた。

では今日はこのへんで。

積極的な遠回りをしたら、あの有名なカメに会える気がした今日

仕事をしているわけでもない平日の月曜日。こんなに陽気がいいのに人は学校とか仕事とかに出かけているのか~と思いながら、読書をする。家族が話しかけて来るのでその度に本から目を離すと、読んだそばから内容もどこの行かも忘れてしまって、2ページ程戻りながら読み進めて、12時に差しかかる位になってやっと読み終えた。

本を読んでいる間中、座っていると足が冷えてしまうのか、痛みが出て来る。足首より上の外側の筋肉。名前はわからないが、ピアノのペダルを踏むときに一番使う筋肉だと思う。つま先を上げ下げすると疲労感がある。以前腰と連動して、痛みが伝わるところだった。とても厄介だ。冷えるとより痛くなるかと思い、家の中で日向のところを探して、痛む片足だけ日差しの中へ置いておいてみた。温まったら痛みがマシになるかと思いきや、意外とそうならない。結局片足をずっとさすったり、指で押しながら痛みを緩和しようとする。意識はだんだんと痛みに集中して、本を読むのを中断することになる。本を読んでいるのか足をマッサージするのが目的だかわからない格好になって来た。寝転がって上を向いたり、足を上げたり下げたり伸ばしたり、読む姿勢も場所もいちいち動いて確認。しっくりは来ない。結局いい場所を見つけられず、痛みも緩和出来なくて元の陽だまりに戻ることにした。

家族の話を聞いて本を読み進められないと思ったが、足が痛いことに気を取られてしまったから読み終わらなかっただけか。すぐ人のせいにしている悪い癖だ。言い訳を考えるときには、物事の進行の中で自分のやっていることよりも先に、人のことが目に付くんだな。反省すべき点?いや、人ってきっとそんなものだろう。人らしい人だ~。まあ、誰かのせいにするのがとりあえず簡単なのだ。そのことで何かもめる訳でも衝突する訳でもないから、いい、いい。人のせいで解決するなら小さなことだ。相手に目をつぶってもらおう。人が一緒にそばにいるからこそ出来る事象。ふふ~ゥ。家族は自分のせいになっていることをいつも知らない。

この私のありがたい家族は、今日もつるんでカフェに行くことになる。本を読み終えた後、昨日無性に食べたくて買ったおせんべいを二人でガツガツ平らげて、お腹が空いたねと外へフラフラ出かけた。親の固定資産税の支払いを忘れていたことを思い出して、それも用事のひとつとして出かけた。何かあると、どちらへ向かうかを決められやすい。何か食べるにしても、食べたいものが浮かばないときに「どの店に行こう?」と考えるのは面倒になるときもある。右に行くか左に行くか迷う。だから、用事がひとつくらいあるといい方向づけになる。決まった方向へ動き出したら、目に付いたところへ入ればいいので気楽である。道を進むだけだ。

用事を思い出したその用事から片付けようと銀行に行ったが混んでいる。並ぶのが好きではない。後回しにして忘れるのは明日に面倒事が残るからそれは避けたい。けれど、気乗りしないことに時間をかけるのを止めてすぐに銀行から出て来た。とにかく気が向く先へ、思い出したことをこなしていく。駅で明日の交通費をパスに入れておこう、こっちの銀行で自分のお金を下しておこう、ついでに家族の振込をATMでやってしまおう…そんな感じだ。思いついたことからやると本当にいろいろ片付く。無意識というものが働いて、勝手にいい順番で事をこなしていくのだ。自分の自動運転!こんなものが備わっているなら、使わない手はない。

とは言うものの、あちこち行ったり来たりして、同じ場所を何度も通る。私たちを追い越して行った二人組と違う場所ですれ違う。案外、同じようにうろうろと手際悪くやっている人たちはいるものである。

ああ、勝手に手際悪くと言ってしまった。そんなつもりもないのだが。しかし周りから見たら、私ら二人も追い越して行った二人も、きっと手際が悪そうな二人に見えるだろう。けれど、それでもいいのだ。どんなことを本人たちが考えているかなんてどうせ誰にもわからないのだ。手際が悪い、要領が悪い、道に迷っている?と思われていた自分たちであっても、「ただ運動していただけ」と言うだろう。実際、家族から「食べてばっかりだし、これって運動になるね~」と言われた。うろうろは健康になる。何度も同じ場所を歩くのも結構いいものだ。積極的に何度も同じ場所を歩いていて、急に思い出していいタイミングで用が済むことも多い。

食事もいろんな用事も済んだ後、家族が一度入ってみたいと言っていたカフェに入った。普段ものすごく混んでいるのでなかなか入れないのだが、他にお客さんが1人しかいない。やった~。めでたくすんなり入れて、アップルパイとアメリカンコーヒーにありつけた。今日もマイペースで時間を駆け抜けたぞ。

では、今日はこのへんで。

ここからが進まない

早く起きたわけでもないのに、なぜか時間がゆっくり進んでいる気になる。気分的にはもう午後になっているような気でいたが、まだ朝の10時とか、ずっと時間の進み具合が周りとズレているような気がしていた。時計の秒針はごく普通に動いているはずなのに、感覚だけが進んでいて、実際の時間はとてもゆっくり。こういうときは急に時間がたくさん増えた感じがして、いろいろやってみようと思える。ピアノを弾いたり、読んでいなかった本を読んだり、目についたところをささっと掃除をしたり、食べたかったスコーンを久しぶりに作ってみたりした。気乗りしなかったことも進む。特に何か効率よくやろうとかスピーディに出来る方法を考えてやっているわけではないのに、事がサクサク進む。何だか得をしている気分だ。

もしかしたら、と思って想像したのは、昨日までの「歩くこと」が作用しているのかもしれないということだ。歩くというだけで脳の活動とか体そのものの動きが良くなるような話を聞く。細胞や神経伝達とかが生き返っているのかもしれない。ピアノを練習することですら、疲れ方が全然違ったように思う。神経伝達のときに起こるストレスがものすごく低くなるのだろうか。だったら、歩くのは昼間休むよりもいいのかもしれない。休むのは夜だけでいいかもな~。

昨日あんなに動いていたのに、昨夜はどうしてもピアノが弾きたくなり、夜中に1時間ほど鍵盤に向かっていた。気が済んで、その後パタッと眠って、ぱっと朝目覚めた。焦ったり我慢してキリキリ、イライラしているわけではないから、そのときそのときに思ったことをやって気持ち良く毎日生活出来たらいいなと思う。日々昼間に眠たい~とか忙しい~とか、そういうちょっとした「耐えること」がない状態で、進む感じがいい。と書いていて、ここから2週間は毎日何かしら予定が詰まっている。明日は予定がそれほどあるわけではないから、本を読めそうだ。ゆっくり出来ることを望む。(自分で決めればいいことだ!)

4月も半ば。家族がまだ暫く家に居るが、それももう折り返し地点になって来た。また一人の生活に戻るまで、何をしているのがいいのだろう。合わせ過ぎず、マイペースだけれど、せっかく一緒に過ごせる時間があるのだから・・・とどうしても二人でつるむ遊びを考えてしまう。まあ、それはいいか。二人とか人と一緒じゃないと出来ないこともあるのだから。唯一、1日の中でブログを書く時間だけ、自分に向き合っている。少し違うか?人がいて、他人の方へ向いているからこそ、より自分に向き合いたくなるのだ。人がいてこそ、自分という存在があるというのをより感じる。長い時間一人で過ごすと自分という存在がだんだんとぼやけて、確固たるものに思えなくなってしまう。普段生活していて、たまたまそうなっていかないのは、誰かが自分を認識してくれる「応答」みたいなものがあるからなのだろうなと思っている。これからもたまには人と過ごすことをやめないでおこうと思う。

ブログもある意味、自分以外の人がいるであろうと思うことで自分を認識出来るツールになっているかもしれない。ブログは自分のために書いているが、人に向けていることには変わりないなと。人がいて、自分がいて、だ。人を見ている自分がいるということで、自分がいることを認識することも出来る。まあ、ただのAIとかで、この画面に見える文字が勝手に打ち出されるだけの物で、誰もその先にいないことがあるかもしれないが、そうだとしても今は騙されていてもいいのかもしれないなと思ったりもしている。きっと、誰もいないように見えるよりはマシなのかもしれないなと思うのだ。たった一人の生き残りの人間になったとしたら、文字の中にかつて生きていた遠い人類の記憶のようなものに助けられて、自分はまだ生きられるのではないかと思い始めた。読書なんて、古い人類の記憶や思考を辿っているものじゃないか。そこに今は存在しない人だとしても、かつて生きていた人というだけでも何だか温かいものを感じるじゃないか。そんなことを今夜は思った。

では今日はこのへんで。

無為な一日を過ごそうと力んで武者震いする

無為に過ごすことを試みる。試みた途端に無為にはならないのだが、とりあえず外に出た。親の住んでいるところへ家族と二人で出た。家族は猫を触りに行き、私は親の飼っている猫が食べないキャットフードを受け取りに出たのだ。用があったことを思い出した。そうそう。親にお金を届けることと、使わない猫のエサをもらうこと。歩いて向かったときには結構無為になっている。

帰宅したら、親の玄関にたまっていたので持ち帰った紙のゴミに該当する諸々を処分。釘も出て来た。猫のエサのパウチを引きちぎって開けたらしきゴミもある。なんでだ?すぐ捨てれば済むことなのに。年を取ると面倒が増すのか、その場に置いて忘れるのか。・・・どっちもである。いっそのことシュレッダーとゴミ箱は玄関に置こうか。でも、無駄だろう。ゴミは捨てる習慣があるかどうかだ。シュレッダーとゴミ箱があっても、捨てない人は最初から捨てることがない。親の家では何ならゴミ箱とシュレッダーを捨てるところから始めた方が良いだろう。ゴミが確実に二つ減るはず。実現させないが、そう思う。

ひとまず午前中に親の家の用を終えて、また家を出た。ピクニックがいいな~という言葉が聞こえたので、景品でもらった外用のクッションを倉庫から取り出して持って出かけた。なぜ自分だけ、と家族に言われたがひとつしかない。いいよ、自分は若いからと言われたが、年齢が若くても何でもひとつはひとつだ。他のレジャーシートはしまい場所が違っていて持って来ていないんだとどうでもいい言い訳をしつつ、近所に前からあるパンのお店に行きたいということで少し歩いた。親の家のゴミ処理を自宅でしたせいで出遅れている。12時頃にはお店のパンは種類が大分減っていた。楽しみにしていたバーガーがもう1種類になっていて、ほぼ無い。残っていたメンチカツバーガーとドーナツの類をひとまず買って食べることにした。

川を埋めて散歩道を作られたところがあり、公園のように途中にベンチがある。普段行ったことがない場所まで歩いてみた。小さな区画だけれど竹林もあるところで、ベンチに腰掛けて食べ始める。背側に道路があるので、たまに話をしながら通る人たちがいたが他のところに比べてかなり静かである。大きな道路から一本離れた道というだけなのに車の音があまりしない。ちょっとこれは発見だった。近くに川があり、カワウやアオサギが通り過ぎて行った。自然多し。住宅街の中にも小さな川だか用水路のようなものが所々残っていて、ここは川の中に街があるのだな。

食べ終わったが、もう一食食べないとお腹がダメだな~と二人で言い合いながら、また川沿いを歩いて行った。近場で何かカフェとかないかな?と家族が調べて、行ったことのないお店を見つけたのでぶらぶら行ってみた。かなり遠回りしながらの丘越え。住宅地だけれど、山っぽい。畑も広がっている。坂を上ると「通り抜けが困難」と書かれているようなものが見える。道じゃないのか?行き止まりか?と思っていたら、車だけ通れないようだ。なので歩き進める。けれど、こんなところにカフェがあるのか。周りはさびれた倉庫、大きな農家のような住宅が点在している。空地のようなところや工場のガラクタ置き場ようなところもある。少し寂れた場所になってきた。もう少しで着くよ、という家族の言葉で先を見ると、道の先は見えないが急な坂道になっているのがわかる。曲がればありそうだ。少し急な坂を上り詰めるとすぐに平らになる。工務店のような家屋が見えた横に、テラス席もあるカフェらしき家屋が見えて来た。着いた!けど入れる保証はない。

階段を上ると、私らと同着で先に入った二人が通されて、少し待ったが入ることが出来た。店がどうやら忙しい。今は忙しくて料理が出て来るのが遅いことやオーダーはゆっくり考えてくれた方が都合がいい、と店員が話す。忙しいわりに丁寧にじっくり話すのが不思議。そういうお店なのだな~。お水の配膳や食事の片付けをセルフサービスでとお願いされる。注文はQRを読み込む。これも自分でやることになる。最近はそうやった方が小さなお店はラクだろう。人は料理を提供するだけ。だったら会計も最初に支払って、全てセルフでもいいじゃないかな?と思うようなお店だったが、そこは違った。現金で最後に払うようだ。

テラス席から畑が広がって見える。虫も入って来るが、風がなかったおかげで畑の土が飛んで来なかった。ちょうどいい心地良い環境だった。先ほどの店員が度々オーダーを間違えて、あちこちで謝っている。お店にはあと二人、料理を作る人、サーブする人もいたが、他のほとんどの作業をその店員がパタパタと動き回っている。「彼女ひとりで自分の店を出したらいいのに」と私が言った言葉に家族も頷く。店の雰囲気は彼女が明るく作っているように見えた。

30分位は待たされたが、味は美味しかった。ラストオーダーぎりぎりの時間だったこともあって、希望した物がほとんどなかったから、軽く食べられる物を考えて頼んでいた。出て来たのは、メニューの写真よりもあまりに大きめの具材や量。笑ってしまった。ボリュームがすごい。チキンサラダプレートを頼んだ家族はあまりのチキンの量に見たとき口を開けた。多い、しかも大きい。ある意味詐欺だ~。

一度ランチを軽く食べている身で食べるにはかなりの量だったけれど、二人で食べ切った。食べ終わった頃、先程の店員がなぜか大きなドリンクを二つ持って来て現れる。頼んでいないことを伝えるとまた謝って戻って行った。たぶん、私の後ろの席に座っていた二人の物だろう。もう帰っちゃったけれど。何度もいろいろ間違えていたがこちらにも来たか。お~。お客さんすべてに謝りを入れていることになったよなぁ。それはそれでナカナカないぞ。

そのことについてのカラクリみたいなことを耳にした。どうやらこの店の料理人ともう一人の他は、全ていつもたまに来るボランティアを使っているらしい。閉店間近にやって来た人がたまたま私ら二人の近くに座り、店のフロアにいた一人と話し始めてわかった。あちこちから希望者がボランティアで月に1、2度程度好きな時に2時間程度フロアと洗い場を手伝うシステムがあるらしい。賄いを提供しているので、食べたら動く、みたいなことをやっているようだ。家の都合で出られないときも自由、出られるときに、希望者と店がお互い声をかけあって一人だけお願いしていたりすると話していた。

へ~。そんな働き方みたいなものがあるのだなぁと驚いた。なぜそんなに手伝いに来る人がいるのだろうか。レシピや仕込みとか扱う野菜など、特別なのかもしれない。料理人の人のことを「先生が○○」とべた褒めしていたから、きっと学ぶ場としてあるのかもしれない。ただ、店の人がへんぴな場所と言っていたくらいどこかから来ても面倒で遠い。電車で来て近隣の駅からバスを使うか、車でしか来ないような場所だ。近隣に住んでいるならまだしも、今日来ていたボランティア希望者は電車で数駅位先に住んでいた。交通費は自己負担だ。今時お金をかけてわざわざ来る魅力とはなんだろうな~。

量も人も場所も、なぜ?と思うような店に今日は辿り着いた。食べて、歩いて、お金を消費という経済活動で世界の役に立つというよくある一日。お金をわざわざかけたのは私も同じだ。歩き続けたりもした。歩くのに意味はない。ただ歩くだけだ。10キロちょっとは歩いた。それだけのこと。お腹が空いたから思いついたところに行って食べたりする。帰りにケーキも買って来た。何となくだ。意味なんて必要なくて、今日も生きた。それだけだ。無為に過ごす、ただ生きているって素晴らしいよな。みんなそうなのかもなぁ。同じようなものか。

では今日はこのへんで。