良識というものの殻が落ちていたらとりあえず拾って被る

美術館二日目。前半は体力が持ったが、その後50分近い映像を立ったまま見たせいで、足が棒の様。それでも近所に住んでいる家族のところへ土産を届けたりして、かなり歩いた。頭はアートの刺激と体力の限界のような感じになっていて、今日はモノを考える余地なし。野生のまま書いている気分だ。

アートに触れて、改めて思ったことがある。この世界に自分が想定してしまう秩序とか常識とか、思い込みのような枠組みの外にアートはあるものなのだろうなと。常に自分が囚われてしまう枠。生まれては壊し、また新しいものが生れて壊され続ける。一定のものではなくて、また枠と思われるものでもなくて、変化し続けて見えるような見えないような。たぶんそこに在ると思った瞬間にはもうすでに囚われている存在になり、無いままでいるもの。私はそんなふうに思った。共感なんてないけれど、心が勝手に震えるとか。ただうわっとするようなものだなぁと。まあ、言葉で書いてしまったら、とても陳腐な感じで。申し訳ない。

見ていて思い出したことがある。大学生の頃、友人の恋人が芸術系の大学に通う学生だったのだが、その人の卒業制作を友人はもらったと言って見せてくれた。そのときは全くと言っていいほど理解が出来なかったし、友人と二人で「何だコレ?」と言っていた。だが、今になってそのことを思い出して吹き出している。理解が簡単に出来るものなんて、ないのだろうし、それすら意味の無いことだったなあと。表現とは、なんてわからないけれど、あの時友人と二人でその恋人の作品を見ながら「ここの部分が気になるから取り除きたい」とか言っていたことが恥ずかしい。その取り除きたい部分がその恋人が一番熱心につけないとだめだと言っていた部分だったのだが、そりゃそうだよなと今は思う。気になる部分はその人の表現の中で一番大事なところだったのだ。取り除いて大勢の人が納得したり理解出来る物を作ることは、作者にとって全く意味のないものになってしまうのだから。

今だって縛られた価値観の中でものを見ている自分を日々感じている。たまに自分を変り者だな~と思っても、それは世間の良識の範囲の変り者で居続けていると思う。ごく普通の大したことない人間だからこそ、周りから社会から受け入れられて生活し続けていられるのだ。知らず知らずに世に合わせた隠れ蓑をまとっていることを自分ではふとしたときにある程度気が付くのだ。とげとげに尖っている部分をほとんど出したりはしないで、人の世を生きている。だからこそ、表現とかアートの世界の中でのとげとげに触れて、自分も人の世ではないところにだけ表現しておこう、と思っている身である。これからどのくらい表現していくのだろうか。言葉を綴るのは表現か?だとしたら今日はひとこと書いておく。人は「役に立つこと」に囚われやすい。書いていて、役に立つことを書いてしまった気になる。やっぱダメな奴だ。アートからほど遠い。

では今日はこのへんで。

スーハーではなくハースーで

だんだん普通の日々が続いてきた。新学期が始まったせいで、周りが静かになって来て、人の群れともそうそう出会わなくなる。生きている生活リズムが違うのだから、そりゃそうだ。平日の昼間は学校等が始まって、住宅街は空っぽだ。入学式も始業式も終わって、車は走っていても子どもが走っていることはない。

なので、近所に新しく出来たパン屋へ出向く。やっと買えた。先月まで春休み等の休日だったせいか、昼間に行ってもすでに売り切れの日が続いていた。今日は平日だからきっと買えるはずと思ってはいた。それでも早めにと思い慌てて着替えて買いに行った。ついに買えたのは良かったが、家を出たついでにボランティアの演奏会ポスターを貼る予定だったが、すっかり忘れて家に戻ってしまった。食べてから貼りに行くことになっていきなり残念感が漂う。まあ仕方ない。

美味しいか、早速食べてみる。食感はパリパリのクロワッサン。でも味があまりしない。3種類買ってみたが、すべて味が同じ感じ。バターの風味や香りもなし。なのにパリパリの歯ごたえはとてもある。家族に「パリパリの食感で味がしない」と伝えると、そのパンを食べた感想コメントの中に、食感を売りにしているような写真付きの詳細なコメントがあるとのこと。きっと関係者だ、と言う。だとしたら、ねらい通りのパンだ。でも、きっと自分はもう買わない。自分がもしコメントを書くとしたら、「パリパリの食べ応えのある食感で料理を邪魔しない味」。私はいろんな味の組み合わせが起こり得る味がいいなぁ。添え物としてのパンはどちらかと言えば要らない。料理や飲み物の味に合わなくても、単体でそのまま味わって食べられるものがいい。家族がパンをかじって食べている音がいつまでもバリバリと聞こえて来た。白菜とかお漬物食べてる?みたいな。パンを食べている音には到底聞こえない。それぐらい食感はバッチリである。

パンを食べ終えたらかなりお腹がいっぱいになり、散歩がてら町内掲示板にポスターを貼りに行く。仲間に頼んでいたこともあって、すでに貼っていてくれていたところもあるが、雨が続いたせいか貼られていないところも多かった。大体、どこに掲示板があるのか、把握している人が町内にどのくらいいるのだろう?自分の活動範囲が広い割には身近なところに5か所ほどしか掲示板が見つからない。ひとつはガラスの扉に鍵がかかっている風、になっていて素通りしそうだった。ガラスが重なっている隙間から雨が入り込んで、中の貼り紙が濡れてボロボロになっているものもある。掲示板ひとつとっても、様子がいろいろだ。町内と外との境界線がどこか調べながら歩いて、その境にある掲示板が隣の町内の物だったときに、大きさの違いを感じた。うちの町内の掲示板の方が大きい、中の掲示物が更新されている、複数枚合って内容が豊富だとか、急に自分たちの町はいいなとお里自慢意識が出て来た。

隣の町内と結ぶ川沿いの橋があり、そのいくつかが隣の町内となっていることも、「きっとあちらがお金を出したからなんだ」と隣の町内が橋にまで境界をやたら強調して意思表示しているんだな、となぜか勝手に想像して不満になる。どうでもいいことにこだわっているんだよと言いながら、自分が一番こだわっていた。ひとまず橋の上ですら町の土地の一部なのだということがわかった。土地が広くなるときっと何か税収とか、人の動向とか統計とかに作用して何か違うんだろうな~。どうでもいいことだが、自分の町内の境界が、もうふさがれてしまっていて目には見えない川に沿っていることも初めて知った。こんなところに川があるとは。全く知らなかった自分に驚いた。ぶらぶらと何かひとつ目的を持って歩くだけで気が付くことがあるものだ。また違う境界線を探しに行きたくなった。

明日はまた美術館に行く。アートは他人の生命力をぶつけられる。エネルギーを吸い込むか、吸い込まれてしまうか。戦いのようである。なぜそんなに自分が奪われる体験をしに行くのだろうか。刺激を受けるって一体何のためだ?思考を止めないでいられるようになのか。自分の感覚に飽きが来ないようにか?何もわからないままだが、明日また他人の表現の海の中で溺れる予定。自分が息が出来ないことも体験する価値はあり。

では今日はこのへんで。

若さを感じるいい大人とは

美術館でのアート鑑賞に家族と行く。途中で桜を見て過ごす。嵐が去った後なのに、それほど散っていない。晴れ間を楽しんでいたが日差しのない場所は空気が冷たい。春ってこういう季節かもしれないなあと思った。

何度も行く予定でフリーパスを買って入館した。今日一日で全部を見て回ることは出来ないか、出来たとしてもまた何度も見に来るのを予想していた。やはり少し回ってすぐにフラフラになる。全部は恐らく無理だ。言葉・文字が多いアートだったことと、映像が流されている時間が長かったことが原因だろう。それに戦争の様子を人が口先から作り出して表している音がずっと流れて耳に入って来る。刺激が多過ぎて、かなり疲れる。アート鑑賞は体力がいるものなのだ。素通り出来ることなんてないよな~。

なので、館外で手作り感のある大きなハンバーガーを食べてからという昼食を挟んで、また再開する。それでも2時間続けて見ていたらまた座り込んでお茶を飲む。もうだめだ。帰ろうとなる。まだ半分も回れていない。まだ見ていない展示部屋に入りたい気持ちもあったが、また他の日でも来れるパスを買ってあるのだから無理しないことだと諦めて帰ることにした。

一緒に出かけた家族とケーキを食べる。どうしても何かお腹に入れないとダメだ、とお気に入りの大きめのケーキがある店を目指して行ったら、たまたま並ばずに入ることが出来た。ここは紅茶も美味しい。ケーキがテーブルに来ると家族はものすごい速さで食べ終わった。もう一個食べてく?と聞いたら少し悩んでいたが、結局紅茶をすべて飲み終わったところでお腹が落ち着いたと言って、そのまま1個でやめて帰宅した。後から聞いたのだが、どうやら私の後ろでメニューを抱えた店員がずっと立ってウロウロしていたらしい。もう一個食べる?が聞こえていたのではないかと思われる。でもなかなか、あの時間帯で2つ食べるような人はいないだろう。そんな大きさのケーキではない。周りの人たちもそれぞれ少しずつ残していたのを帰りがけにちょうど目にしていて、もったいないなと思ったくらいだ。普通よく見かけるケーキより一回り大きいから、大抵は1個だろう。それでも店員が家族のケーキを食べる速さを目撃、そしてもう1個食べるか?のフレーズを聞いて、もしかしたらと思ったのかもしれないな~。

背後にずっと人に立たれていたことも気が付かず、私は暢気なもんだ。一人の生活を過ごしている普段なら、ものすごく気になってしまうのに、ここ暫くは背後なんて無関心無頓着である。家族と一緒にいると周りに無頓着で、さらにボケるのが常である。安心とボケはセットなのかもしれない。振り返ってみると、美術館に着くまでの間にもボケボケだった。コートと一緒に持ち出して用意したミニタオルをどこかへ置き忘れていたらしく、使おうと思ったらリュックにもポケットにもないことが発覚した。実のところ、どこへしまったか全く記憶がない。完全に忘れたのである。他にもあった。トイレに向かうときには違う入口に差しかかってドアを開き、家族に止められてやっと気が付く。美術館の入口でチケットを買う際にも、割引のためのマイナンバーカードがなかなか出て来ない。代わりにと思い保険証を探すが出て来ない。結局マイナンバーカードを探そうと試み、再度探したら一緒に出て来た。なぜ一緒に入っていたのかすら覚えていない。もうすっかり「なんだっけ?」「どこだっけ?」「んー?」を朝から常にやっていたように思う。安心感は人を早くボケさせるから、緊張感は適度にある方がいいのだな。まだ、ボケたことを思い出せるボケ程度で安心する・・・いや、安心は禁物か。危ない危ない。緊張だ、緊張。

歩いている途中に木の実みたいなものが落ちていて、どうしても蹴りたくなる。蹴った。滑ったりしないかと思い、少し緊張。なぜかこういうときだけ体もスピーディーに動く。おお!まだ動けるぞ。玉乗りしない。やった~!と思っていたら、家族からひとこと「今どき中学生でもやっていないのに!!」と窘められた。ぎこちない体だけれどたぶんまだ動ける。無作法は体が若くないと出来ないもんだよなぁ。そうか、まだ若いんだな。聞いた人の言葉の全体の意味を忘れて、一部の言葉だけ聞いて都合よく記憶し、ずっと良からぬことしか考えていない。

窘められても、また相手が忘れた頃に家族に向けて横向きに蹴る。やった!歩いている足の間を抜けたぞ。しめしめ、気が付いていない。けれど、やられたことに気が付いていないこともつまらなくて自分から白状する。家族の方もまさかそんなことはしないだろうと思っていたのか、全くの無反応。それとも大人なのか。年齢は随分下のくせに大人になっちゃってさ、私より先に年を取るぞ~と思ったりする。

家族は「頭痛くなって来た」とか言っている。やっぱり何だか私より大人な感じがする。明日になったら、また何かやってしまおうと思ってウキウキしているところである。もちろん頭痛なんてないぞ。ふふふふ。

はたと気が付いたが、すでに若さで喜んでいるのだ。そのココロは、もう若くはないよな~。

では今日はこのへんで。

私の何もかもがフェイクですと言う実在

外は嵐だ。温度も暖かくて熱帯にいるとはこんな感じだろうか。いつも着ているジャージが暑く感じられる。昨日の夜、嵐になる前に家族が帰宅し、お土産が食卓テーブルにたくさん積み上がっている。もし何かあっても暫く生きられそうな位の量だ。私が先日食べたいと言って買って来てもらった京都の八つ橋も大分数が減って来て、残すはあと一箱!というところでの静岡土産の山。こうやって書いてしまうと住んでいるところがわかってしまいそうだなと思い、なるべく地名を避けて来たが、今日は書いてしまった。あちこち動き回る家族のお土産はそのうちどこまでも続くはずなので、書いてしまってももういいかなと思い始めている。

で、今朝は静岡のお土産のことである。パッケージにある観光協会の文。読めない。漢字がところどころ難しい。読み方を知らない。文字は知っていて意味はなんとなくわかるとしても、縁が無くて読み方に慣れていないから読むには調べるしかない。朝ご飯を食べる前からお土産を食べ始め、家族に読み方を調べてもらうことにした。今は即時簡単に調べることが出来るのだから、例え明日忘れてしまおうとも、今知りたいのだから今調べるのだ。少なくとも自分の小さな満足は得られるはずだ。「因」「搗」を読めて少し嬉しい。明日になったら使わないからきっと忘れてしまうのだろうけれど。忘れたらまた調べる楽しみがあるじゃないか~と思っている。人生の中で知っていたことも適度に忘れて行くからこそ面白みも増すのだ。

そういう意味では、忘れることが容易くなるような仕組みが今はなくて、否応なしに思い出させられて困るのが、あちこちで使われているAIの機能だと思う。違うかもしれないけれどそう思っているから、そのまま書き進める。さっきまでの自分の似たような好みや関心事を記憶して探して来ては、ずっと変わらずに押し付けて来る。もうこれ以上知りたくないんだ!と思っているのに、さも親切にこれ好きでしょ!と続けて来る。もう、気分を変えたいときはスイッチを切るしかない。

人との付き合いもそういうものだとは思う。相手のことを「知っている」のは過去の記憶の情報である。それを今も同じようなままだと思って、話しかけてしまう。本当は一緒に今そこにいるときでさえも、相手は変化し続けているにもかかわらず、こちら側は気分や気持ちが変わったとはそうそう思わないで、自分の中の古い情報で相手に接しているはずだ。けれど、そのことを知ってか知らずか、これ好きでしょ?とかこれ好きだったよね?なんて言い方をしている。これはすごい。自然にやっている。

だが今のところ、AIからそういうふうには聞いてもらってないようだ。AIと人が違うのは「?」を大事にしていることではないかと思う。人はどこかでお互い違うものだと認識して、相手のすべてを知らないと思っているからか、相手のことをお伺いする姿勢で向き合い、付き合っている気がする。たまにそのことを忘れて、押し付けがましいとか、自分のことをわかったつもりになるなよとか思われることもあり、付き合いがちょっと上手く行かないこともある。付き合いが上手く行かないときは、下手なAIと同じなのかもと思ってみることもいいのかもしれない。下手なAIを見て学べ、だ。今のところだ。

今のところ、と書いたのは、上手いAIはきっと人よりも学びが広く深くなって、すごくいい人間を目指して行くのだろうと思うからだ。そうなったとき、きっと誰も気が付かないだろう。今だってブログでさえ、人が書いていないものがあるじゃないか。何でも上手なのだろう。今は自動音声のテレビのニュースの時間があって人が読んでいるわけではない。電車のアナウンスだって、出た当時はもっと人っぽくなかったが人っぽくなってきた。気にならない位にすでに存在している。というか気にもしていないのではないだろうか。

私は上手なものというより、その先に人間というものがあると思えるからこそ何らかのものを求めていると思う。そこにあるものを介して人を求めているんじゃないかな~と思っている。小説だって、面白い架空のものを楽しんで行くことの先に、作者に興味が出て来る。作者がいない存在だったとしたら、その時点で私は興味がわかないかもしれない。騙されることは大いにあるが。ピアノだって街の中でピアノが置いてあるところで自動演奏で弾かれるときより、下手でも人が弾いているときに足を止める。メールだって、画面に映し出されるただの文字なのにその先に人がいると思えるからこそ、もらったときに嬉しく感じるものなのかなと思う。その先に人がいてこそ、かなと思っている。その先に人がいなかったら、虚しさを感じるんじゃないかなと今も思う。

そうは言っても、いつか本当に騙されて、実際には人なんか一人もいないよ~という状態に置かれていることを想像する。そう、騙された、という言い方がぴったりかもしれない。これからはそれで一生を終えることもあるかもしれないなぁ。寂しくなるのか、ならないのか。気が付かなければ平気だろう。じゃあ、気が付いたらどうだろう。恋人に二股かけられていて、私は本命の恋人ではなかった、私だけが思っていただけなのだ、みたいなことに似ているような。夢を見てひとりで満足出来る人生もあるからなぁ。どうだろうなぁ。所詮自分の頭の中で生きている生き物だしな~。騙されたと知ったとき、どう思うのか。人から騙されると記憶に厚みが出るが、AIとかに騙されたら空しくて虚しい。相手の姿はなく、自分の行動の記憶だけが残りそうだ。

文章を読んでこんな面白くない文章を読んで損した!と思ったとき、その「あて」はあるのか。AIのときはどうだろうか。宛てのない当てはどう感じるのだろう。人に向ける方が私はいいな~。

では今日はこのへんで。

考えていたことが現実になった!と思ったら夢でした、というのがありそうな朝を迎えるのはもうやめだ。

家にこもっていたが、桜がどうも気になって外に散歩に行った。今日桜が咲ききって、満開のタイミングを逃してしまうかもと思って、いてもたってもいられない。昨日は急いで外に出て行った。

家の中にいてももう寒くはない。外に出ると陽気が良かった。一番見たかった場所は少し遠回りして歩いて行く途中にある。その道の途中にも桜は咲いていて、見ながら歩く。かなり行ったり来たり、うろうろする。たまに蕾を探しては立ち止まり、本当に花を見に来ている自分に気が付く。一人で空と花を見上げていた。まだ満開ではなかった。ほっとする。明日もその次も、ただ見に来ればいいことだ。満開の桜に間に合う自分、というだけなのになぁ。桜はやはり好きだけではなく、今ここにある季節を感じたいための大事なものとなっているのだろう。

私の親の一人は病気で亡くなったが、そのとき「次の桜を見ることは出来ない」という言葉で命の長さを計った。病気なのだとわかったときには余命は一か月ほどだと医者から伝えられ、そのとき、もう一緒に桜を見ることは出来ないのだ、と親も私も一度桜を諦めた。実際にはもう少し長く生きられて、最後の桜を一度だけ一緒に見ることが出来た。でもまた、そのとき同じように「次の桜を見ることは出来ない」と思ったことを覚えている。季節を感じさせる大事なものを人は持っていて、その季節が来るたびに否応なしに思い出す記憶になるのだなぁ。

自分だって、あと何回満開の桜を見ることになるだろう。いつも人生の長さをそういう数え方でしてしまう。そういう人も他にはいるんじゃないだろうか。桜に限らず、一年に一回の何かのイベント、誕生日、記念日等も、どんなに大事な人とたくさん過ごしたいと思っても、そのたくさんはせいぜい100回あるかないかだ。当たり前にやって来ると思えて、漠然と「たくさん」だと思えているときはまだ気が付かない幸せ。これが最後の一回だと誰も思っていない。病気で余命を告げられたからこそ、人生の桜はこれで最後だ~と思って親もちょっと無理して近くの公園まで出かけたあの日。私が親と過ごしたあの桜の季節、最後の一回だと思っていながら、最後にはしたくないと思っていた。矛盾する気持ちで揺れ動いていたように思う。どうあがいても、親の寿命は尽きて、それが最後になってしまった。あがいてもどんな気持ちでいてもどんな努力しても、人生の最期は来るんだよね~。

今日の桜を見たい気持ちは今日全うさせよう。死を恐れて動いているわけでもないけれど、最後かもな~と思うとやらない選択が無くなる。ただやりたい気持ちだけがそこに残り、ある。余計なことは考えない。そのときそのとき、生れ出た自分の思いに忠実に動けて行く。動けるってのがやっぱりいい。最後かも?と思って、いや違うはずだ、と思い直すこともあるが、こればっかりは誰も予測出来ないからなぁ。やっちゃおう。

ところで、昨日から朝早起きになってしまい、今朝も5時半に起きてしまった。ここ1ヶ月半位は、ブログを書くために今まで寝るのが遅い時間になっていたが、これからは早く寝て朝書くのもいいなと思っている。夜に頭を動かして、パソコンの明るい光を見ると意識がギラギラしてしまうので、やめようと思う。どうせなら夜は何も考えたりしないで死んだように休息を取る方がいいのだ。それこそ、眠ったらもう目が覚めないかもしれない、という気持ちで夜は眠れるように。

朝から「今日は最後の一日だ~」と自分全開の方がやれることも増える。夜はどうしてもやりたいことを抑えることになってしまう。活動で単に音も出ることもあるし、外を歩き回るのも危険だし、歓喜の声を出しながら動いてしまって近所迷惑だし、夜中うろうろして職質かけられるかもしれないし・・・面倒この上ない。ほとんど声を出しながらうろうろ動く前提だ。

そういうことも含めてやるのを躊躇する夜と違い、朝は自分の気持ちを抑えないで済むだけでストレスもない。やりたいことを我慢するストレスって最悪だ。そんな気持ちを抱えて眠ろうとするなんて、寝つきの悪い自分にとってさらに効率が悪過ぎだ。ということで、朝から書くことにした。しかも今日のやることリストのひとつはこれで終わる。やった~。気が向いたら一日に何回も、また書くかもしれないが。

でも今はこのへんで。

自分で自分の欲望を模倣する

朝から書いてみた。これからのことを少し考えている。書くことは好きだけれど、自分をひとつのところにおくのはきっと違うんじゃないかと思う。今日からちょっと変えてみよう。そのひとつとしてまずはブログを書くことから手をつけてみた。机の横に放置されているメモ書きを処分しようと思った。アレルギーの薬を飲み忘れたついでにもう止めてみよう。洋服を変えてみよう。みようみようだ。それでは早速取りかかる。

勤め人を辞めた後、仕事をしようと思うことはなかったけれど、少しは稼がないとなと思うことが時々心の中で浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた。お金の不安が出て来るのは、お金を遣っている限り仕方がないのだろうなということ。全く遣わなければ、気にするタイミングがないからそんなこともないのだろうが、外に出たり、書籍を読むと必ずと言っていいほど目にして、影響されて気にすることになる。何の刺激もないわけではない。もう一度、貯金や年金をチェックすることと、何が欲しくて何が要らなくて、どう生きていたら自分が満足するのかを書き出して振り返ってみることをしようかと思う。ある程度自分の暮らしをその都度振り返れば、思い出すことの中にこれからを生きる大事なヒントがあるだろう。いつだって軌道修正は出来るのだ。

自分の欲望は他人の欲望を模倣するという言葉を見た。本から得たのではなく、それを読んだ人が書いた文章を読んだのだが、単純にその言葉を見て納得。だからSNSを見たり、外に出たりするだけで、やってみたくなるのだろう。他人じゃなくても、例えば自分が書いた物にも影響される。だからこそ、「こうしたい」とかではなく「こうする」と、なりたい想像図を明確に文章に書いて、自分にスイッチを促すようなことも出来てしまうのだな。さて、自分はどんなことを書いてしまおうか。

ただでさえ影響を受けやすい自分だ。簡単にのめり込むだろう。大胆なことを書いてしまえ~。

では今はこのへんで。

 

退職後の中間報告。ここで言うホウレンソウとは放置・練習・想像の繰り返しです。

幸せバナナ計画発動。単にバナナを食べるのではなく、ただバナナを活かした焼き菓子を作っただけであるが、自分の今日やることリストのメモにはそう書いてある。メモはどうせなら楽しいタイトルをつけておきたい。見る度にいちいちバカバカしくて笑える。目標は一日楽しく笑って生きていたい、なのでちょっと笑うってのがいいのだ。また下らない一人遊びを考えてしまった。自分で書いた内容がわからなくなることもあるかもしれないが、暫く続けてみることにする。

ケーキを買いに行くのは来週にして、幸せバナナ計画を遊びと体調とお財布の中身を考えて実行してみたのだ。ここ数日は家族と一緒に遊び回って出歩いてもいるし、かなり散財している。なので、家にこもる。自分の一か月の支出を予算内で収めるために、もう少しは自分の手を使って何かしようかと思う。外に出ると、こちらがお金を出して何かを人から与えられるばかりになってしまう。人に与える側にならなくてもいいが、家にあるものを使って自分を楽しませる何かを本気出して考えてみないとな~。人から見たら物のない家に見えるらしいが、自分としては家の中にはまだ使われていない材料が眠っていると思っている。庭にだって、植物を利用して作れるものがあるし、倉庫にも使っていない物があるんだよなぁ。今はまだ考え中だが、材料が入っている押し入れと倉庫は空っぽにしてみたい。自分が活用出来る物は今年中に全て形を変えて、使える物にしてしまおうと思う。

以前、ミニマリストの有名な人が話していた中で、失業したタイミングで数百円しかしない物でもすべて売ったという話を聞いたとき、それはすごいと思った。お金の価値がそれほどない物であっても売ったということがすごい。収入がないときに、形ある物のすべて、持っている物を全て売る。理にかなっているなと思う。小さなお金の価値を無駄にしない。特に今は時間がある身分だから、少々無駄な待ち時間があったとしても買い取ってくれる場所に自分から動いて行くこともアリな選択だと思った。捨てるより、売りに行こう。物は活用される場所があるなら、その方がいい。価値を私じゃない誰かが見出してくれる可能性に託す。

そういう物の他に自分ではまだ荷物があるように感じていて、少しその荷物に対して何とも言えない重荷も感じて来ている。言わば「昔の自分の荷物」だと最近思えて仕方がない物。自分がもういいんだ、と区切りがついた物なのかもしれない。大事だと思っている物も、時間が経てば大事な物では無くなる。価値の変化が出て来たのだろう。自分の感覚を信じる。老い支度とまでは行かなくても、時間が経って面倒になる物はどんどん処分だな。

絵本を出した友人が、今度ある書店でイベントを開くことになった。元々は他の友人の個展を見に行った書店で、その友人の絵本を見つけたことをきっかけに、そこの店長と話をしてイベントやったらいいよね~と盛り上がり、書店と出版社とも話が通り、企画が出来上がった。こういうのが一番楽しい。どこかで人と人とが繋がって行って、面白いことが出来る。近々友人と一緒にお店に行く予定で、なぜか店との連絡係を私はしている。そういうことをしているなんて、驚きだ。若い頃は人との連絡や交渉は苦手だと思っていたのに、今は意外と知らないうちに平気でやっているんだよなぁ。人って変わるもんだ。気負い過ぎて「成功させなきゃ」とかいう期待みたいなものがなくなったからかもしれない。自分がやれることなんてないよ・・・と本当に自分の成果に期待をしなくなったからだろうと思う。ダメならダメさ。上手く出来るはずはない。だから出来るのだ。結果を追い過ぎていた若い頃の自分に言ってあげたい。まぁ、それも無理だから、これからの自分に言うようにしたい。「電話もしろよ、ダメもとで。」そう、今はビビりながらも何とかやっている。ついでに褒めよう。えらいぞ!!誰かが褒めなくても自分で褒めることは出来る。よしよし。

では今日はこのへんで。