風が吹いたら倒れるかもしれないあばら家にて

10代の頃、度々訪れていた街に寄って来た。地元ではなく、週に一度日曜日に音楽の勉強をしに来ていた街だ。その頃の街は若い人も大人になりかけた人もごっちゃになってたくさん押し寄せ、カオスのようになっていたところ。今は違うようだ。今は外国から来た観光客で一杯で、平日のせいか日本人の若者も少なく、店は閑散としている。しかも何だかわからないからこそ興味津々で思わず入ってしまう様な小さな店はほとんど無くなっていて、大通りは分かりやすく煌びやか、ガラス張りで出来た建物で名の知れた大きな店ばかりになり、背の高いモデルのような人たちが微動だにせず店のドア近くに同じようなポーズで立っている。店は何だか分かりやすさが倍増して入りにくい。たぶん私にも店側にも確実にお互い用がないねと思う場所になってしまった。

どの店も違うようで同じ顔をしている気がするな~と思いながら、通りを一周するような感じで歩き、近場の駅に向かう。立ち止まった交差点で、ふと思う。こんなにたくさんの人はどこへ流れて、向かっているのだろう。街が閑散として活気がないのに、道には人が大勢あちこちから集まり、流れて行く。自分もその一人だけれど、何なのだろうこの街は。土地の人が全くいないわけではないはずなのに、とにかく流れて行く人がそこに大勢いるということで存在をアピールしているような街。虚構で出来たような場所とはこんなところを言うのかもな。何度も来ているはずなのに、初めてそんなふうに思ったことに今驚いている。キラキラしているのに、何もない。少なくとも私にとっては何もない場所なのだなと思った。

自分の街に戻ると、背の低い人の群れがいる。なぜだ?ここはみんな背が低いのか。そうじゃない、きっといろんな年齢の人がいるのだろう。さっきまでいた街とは違う風景。小さな子どもも年を取った人も、学生も、とにかくいろんな人がいる。男も女もヒールの低い靴を履いている人が多かったりして?さっきまでは厚底の人も目に付いたが。夕方にいる、少しだけくたびれたスーツ姿の人たちもいる。ここは帰って来る街なのかもしれない。みんな急いでいるけれど、自分にとってちゃんとした「どこか」がある人たち、その場所へ向かう人たちの群れだきっと。この安心感は何でだろう。虚構ではないからか。私もそこでその人の群れの一人となっていた。

いつもの自分の場所に帰るという安心感はいいよなぁ。帰る場所に人がいなくても、自分のスミカであればいいんだ。寝る場所?ちょっと違うかもなぁ。でも、ただ寝る場所でもいいか。何だかんだいろいろあるけれど、自分で作った帰る場所というのがいい気がする。そういう意味では子どもにとってはまだ与えられた場所だから、わからないかもしれないが。

それこそ、自分が10代の頃は子どもから大人になりかけて、自分の行く場所を探していつもふらふらしていたのだろうと思う。どこに行っても平気だけれど、どこでもない感じのような。つかめなかったよなぁ。実感みたいなものがあるようで、ない。好奇心ばかり先走っては盛り上がるけれど、ここじゃないと後で気が付き、また探す。今も文字にしてみると似たようなことをしているように思うが、もっと所在無げな感じだった気がする。行く場所はたくさんあって、いつまでもここにいたいとは思うけれど、なぜかずっと居ていい場所じゃないとどこかで感じでいたなぁ。今はどこでも居ていい場所になっているけれど、ここに今はいるのだと決めることが出来ている。そんな感じだな。

今日はここで文字を打っていること自体が、何だかほんわか安らぐ。自分で居ることを決めた居場所、今の気分ではホームかな。ホームを持っているということの幸せだと思う。どうか、あの街で彷徨う人も自分のホームにいつか辿りつきますように。ははは、余計なことを書いた。

では今日はこのへんで。