おしゃべりな指先と口を持っている

言葉を持っているにもかかわらず、人はいつから思った言葉を発しなくなるんだろうなぁ。そんなことが頭を過った、小学生相手のボランティア。半年ほどボランティアを一緒にやって来て、彼らのボランティア活動についての体験を発表するため、その際に読み上げる原稿を作っていた。

最初は話をして、どんなことをやったのか覚えていることをいくつか出してもらい、それについてどんなことを感じたのか少しざっくばらんに話をして、話したことをそれぞれ短い文章にしてもらう。それについて、みんなでまた話す。言葉にして、書いて、目で見て、また思い出したことを書きこんで・・・の繰り返し。その後、みんなで継ぎ合わせて、絶対言いたい部分の言葉を残して、凝縮して、400字詰めの原稿用紙に書いていく。

最初絵の方が得意だ~という子には絵を描かせた。それを見て、思い出す子もいるし、感じたことをメモしたり、言葉をどんどん吐き出す。出した言葉に対して、「で?」とこちらから言うと、またその自分自身の出した言葉に対して、思うことや感じたことがスルスル出て来る。みんなそれぞれもうすでに言葉が中にあるんだなぁ。私が何かを教える必要もないし、それぞれの思いをただひたすら引き出すだけ。小学生だというのに、文章は苦手という子でさえも、ひとつ書き、二つ書きとしている間に、長い文章が湧き出して来る。

ただ気がついたのは、まとめようまとめようとしていて、正しい言い方は?というのを最初から考えてしまって、浮かんだ言葉を言葉として発して行くのをためらう様だ。だから「ちゃんと書かなくていいから」「メモ書きで」と渡した紙に、一文字書き出すことがとても難しい様子もある。あったことをただ書いている子もいる。自分の思いや目線はなく、まるで事務連絡の様だ。まぁ、報告みたいなものだけれど、少しは自分たちの感想も盛り込んで欲しいなぁと思い、少し長い時間言葉が出るまで付き合ってみた。

思ったことを書く、発するという動作が身について行くのは練習なのだろうなぁ。長い年月をかけて出来るのだろうけれど、どこかのタイミングで苦手意識を持つかどうかで、その後の練習経験が増える人と減る人に分かれるのだろう。小学生ですでに苦手意識が邪魔しているのか、書けるのに「書けない」と言い、話せるのに「話すことが無い」と言う。見ていて歯がゆく、もったいないなぁと思ってしまう。今は正しく書かなくていいのだよ、という言葉がなければ書けないとか。いつの頃からか、〇とか×とか自分の発した言葉につけられちゃうんだよなぁ。遭遇する場面に適している適していないかはあるのかもしれないなとは思うけれど、〇とか×じゃないはずだ。言葉で思ってしまうことは、その人にとって一番適していた言葉がソレだっただけ。まずは出してみて、場にふさわしいかどうかは、後で推敲すればいいのでは?と思う自分がいるが、今の小学生はそんな悠長なことを言っていられないようで、最初から完璧な言葉を話すとか、一字一句間違えないで書くとかが求められているのかもなぁ。勝手な想像だが、本当に大変である。それに応えようとしている小学生が見ていていじらしい。

私自身は小学校の低学年で、書く言葉がすでに好きになっていた。話し言葉を使うより、書くことの方が多かったのだ。だからけして語彙がふんだんにあるわけでもないのだが、すでに自分の中に有る言葉をどう利用するか、どんな感覚で使えるのか、使いたいのかを考えて来たように思う。目で見えている文字の並びから受ける印象も含めて、言葉の感触を大事にしているかもしれない。自分の感覚に沿って言葉がなぞられて与えられて、いつしか自分のものになって来て、同じ言葉を使ったとしても人は全く違うことを感じていたり、逆に同じようなことを感じているようだったり。言葉というものには、指し示しているものでさえ、何一つ同じことなどないはずなのに、他人が共感したり納得したりする不思議さがある。自分はある意味、他人と言葉で相容れないからこそ、伝わるかどうか等、他の人のことを気にしないでいられるから、ずっと書き続けているのかもしれない。伝えようとは思うが、伝わらないとも思っている。淡々と書くだけなのだ。

では今日はこのへんで。