手が入れば足が入るって?

ボキンニゴキョーリョクオッガィシマース、って小学生が腰に腕を組んでまるで応援団みたいに声を張り上げている。しかも言葉はカミカミだ。長い文章を一気にとにかく言おうとして、つっかえる。その中で小さな声しか出せないと思っている子は「出来ないよ」と言って黙り始める。全部ひとりで大きな声で言わなくていいのだ。他の人が言った言葉の後にお願いします、お金を入れてくれた人にありがとうございますと言えて、羽は針とシールのどちらがいいですか?だけ声をかけられたらそれで充分。これでもたくさん出来ていると思う。全部をいきなりやれなくていいのだ。その場に参加してみて、立ってみること。それだけで感じることが増えて、新しい自分になり、今までとは違うだろう。

そんなことを思いながら小学生の子どもと一緒に立って募金活動をしていた。先に朝から駅出口で活動していた人から聞いたのだが、声がうるさいからあっちへ行けと近くのお店から苦情が出たらしい。場所を変更して小学生と一緒に少し離れた場所に立つことになった。どちらにしても結局は大声で呼びかけをしているから同じなのだが、さすがに目につくところに立っているわけじゃないから、店の主人もここまで来ない。普段なら何か言われても説明するリーダーが今日はすぐに引き下がったらしいが、驚いたことに調理場からそのまま刃物を持って出て来た店の主人が相手だったので、どうやらそのまま引き下がったようだ。

店の主人は外国人だから、きっと日本でいつもやっているこの募金活動をよくわかっていないんだろうと、みんな仕方ないねと言っていた。日本人じゃないから、と納得していて、今回はそれでも良かったけどなぁ。外国の人が増えて、慣習も違うし、文化も新しくなって行くことを、日本人で日本にいる人たちも寛容になる必要があるよなぁ。まぁ、日本が日本としてどうあり続けるのかは課題なんだろうな。

これから募金活動ひとつ取って見ても、問題はあちこちで起こる。今までならちょっとうるさい感じがしても「今の時期だから仕方ないね」とか大目に見てくれていた人が少なくなって、きっともっと決まり事がたくさん増えて、何だか面倒くさくて難しいなと思うことが多くなるのだろう。私たちが活動した前後も、いろんな団体のボランティアが参加して同様に道に立っているのだが、きっとトラブルを抱えつつやることになるなぁ。他の団体はどうしていたのだろう。まだ街頭募金は5日目。今日もどうしていることやら。

自分と直接関係ない場所で行われている善意の活動について、関わっていないときは「いい活動だね」と言っておきながら、一度自分が何らかの形で接触してしまって関わる羽目になって来ると「もういい加減にしてくれ!」「なんでやらなきゃいけないのだ」と思ってしまうこと。それで、いつしかその活動自体を嫌悪し恨んだりして、活動を止めて欲しい理由を並べて述べてしまったことで、その活動自体が無くなってしまうということは多い気がする。そういうときは、そう思う主体である「自分」が抜けている。本当は「活動が」ではなく「自分が」嫌なだけだ。意外とすり替えてしまっているなぁと思う。自分に思い当たるところが大いにあるからこそ書いている。

自分は今ボランティア等で関係したところを振り返って、これから続けて行くかどうか検討中である。社会にいろんな場所が必要でたくさん生まれている。必要、必要と生まれたいい仕組み等、たくさんあるのだけれど、知れば知るほどに需要はあるけれど実際に運営をして行くための人材がいないし、お金も回って来ない。それらをやっている、困っている人の中で誰の手をつかむか、その選択をいつも考えなきゃならなくなった。

今までは誰の手でもホイホイつかめるように時間も労力も提供出来るように考えて暮らして来たが、それもだんだん大変になって来たように思う。体力的なこともあるし、金銭的なこともある。どんなに楽しく過ごせても、自分自身のためだけの一人時間もあった方がいいのが分かって来た。何事も、ひとつの体で出来ることはひとつのことなのだろう。私は何を選んで行くのだろうか。ただただ今の生活をして行くというのもアリ。

では今日はこのへんで。