庭木の葉が落ちて道路が散らかった~と焦って片付けず、のんびり掃けばすれ違う人と会話も生まれる。

地域の高齢者の食事会開催で手伝いをしていた。今回の食事の後の催しはフルート演奏。伴奏者がいないけれど、一人で吹く。どんなものかと思ったけれど、確かにいいスピーカーと伴奏音源があれば気軽に出来る。練習も一人同じ演奏を聴きながら出来るのかぁと、現代の便利さだからこそ出来る演奏を聴いていた。

演奏してくれた方は、隣の町内の人で、ボランティアを盛んにされていた人だった。退職されてから趣味でフルートを吹くようになり、まだ下手だけれど・・・と言いながらも、あちこち高齢者施設等を回って吹いているらしい。正直なところ、思っていた演奏力ではなかったので、聞き苦しい音もあって、ちょっと私の耳自体は大変なときもあったけれど、伴奏音源が素晴らしいこと(楽譜とセットになっている)と、周りの食事会参加者の人たちが歌を口ずさんで楽しそうにしているのを見て、そういうものなのだなぁと感心した。

選曲は大事だ。クラシックは「寝てしまうだろう」ということで、演奏者が昭和歌謡を準備して来た。大当たりで、みんな元気に歌い出す。聞くんじゃない、自分が動いて奏でたいのだ。しかも、私が生まれる前の曲で、というのは考えてみたら当たり前だ。90歳前後の人から見たら、私が生まれる前にすでに何十年か生きている。昭和歌謡なんて、彼らがすっかり大人になってから聴いて過ごした音楽だ。青春時代の思いを巡らせている人もいれば、歌手の○○のラストコンサートに行ったよ~など、歌を聴いてついこの間行ったんだという話などをしている。私自身も子どもの頃から知っている歌手と会い、この年代になってから生で音楽を聴いたときはいろんなことが蘇って来た。音楽は不思議なものだなぁ。

話はフルート演奏者に戻る。本当に素人な演奏で、教室の発表会で聞いているような演奏の方がもっと上手・・・と言ってしまったら失礼かもしれないが、旋律を何とか最後まで吹ける程度の演奏でもボランティアは務まり、喜ばれるんだなと思った。自分がピアノについて、なぜ弾かないのだろう?と思う。もっと演奏力が上がってからだったら弾いても良いなとか、どこかもうちょっともうちょっと、と先延ばしにしている自分がいて、この年齢まで来てしまったなぁ。

結局のところ、演奏者が取り組み始めるかどうか、スタートさせるかどうか、そう思えるかだけなのだなと思う。「大した演奏じゃなかった」なんて、どんなプロの演奏者だって言われる。演奏力や好みなんて、人がいればその数の分だけ、いろんなことを言われるのだ。ただ単に自分の演奏について言われるのがいやだったり、恥ずかしかったり、認めたくなかったり。演奏の反応を感じてショックを受け、嫌な思いをしたくない、という感じなんだな。

尻込みして来て、人前で弾く経験が出来る時間を無駄にしてしまった気がする。少しピアノの演奏が必要な場面等で声がかかったら、やってみても良いなと今は思う。もちろん、準備が必要なので全部は無理だが、簡単なものだったり、少し頑張ればいいものなら取り組んでみようと思った。

話は変わるが、今年の柿の収穫を終え、いろんな人に配っている。昨年から自分でも食べるようになったので、味を楽しんでいるが、売り物にはない味がいいと言ってくれた人の話に納得している。不揃い。味も堅さもまちまち。みんな違う顔をしている。今年の柿は甘いものもあるが、早く落ち始めてしまったので、熟し方のせいなのか元々の柿の体力が落ちたのか、全体的に昨年より甘みが少ない気がした。それでも瑞々しく、艶々した柿を食べると、なぜか元気をもらっている気がする。

君って美味しんだね、と柿の木を見て思う。最近ヤスデが木の肌にたくさんいて、朽ちそうな感じもある。自分よりもかなり年上なのだろう。家が建ったときに植えられたものだとしたら、きっと自分よりも先輩だ。中古で手に入れた家で25年ほどすでに経過しているのだ。その間、自分の剪定の下手さにも付き合ってくれている木。先に寿命が来るのはどちらかねぇ。気になるのだ。

柿が持つご縁で地域の人とも交流している自分。考えてみたら、柿の木を大切に扱うってどういうことだろう?と、扱い方もわからないまま時が過ぎている。庭の柿の木のように、よくわからないまま素の自分に飽きもせず付き合ってくれている人たちの顔が浮かぶ。たまたま、うまく行っていただけかもしれないし、相手がとても上手に合わせてくれていただけかもしれない。お返しも何も出来ないな・・・と思わず、これから少しずつでも相手と向き合おうと思う。私は十分に人から大切にしてもらっているのだ。

では今日はこのへんで。