出来ることなら今夜眠る前に可及的速やかにコレを温め直したい

友人と話をしていた。以前その友人は、どこか少し自信無さげな様子で過ごしている感じだったのだが、最近では「やれているんだ」「続けている」「しっかり出来ている」など、プラス要素に感じられる言葉が多くなって来たのを感じてはいたが、実際に行動して活躍しているのを知った。元々学生の頃から成績も優秀だし、当たり前のようにいろんなことをにこやかに人当たり良く、しかも滞りなくやっていた人だから、当然と言えば当然なのだ。ある時期外から見ていて、やりたい気持ちがあるのに物事に対して自分からは行かず、「○○だから出来ないんだよ」と言葉を発して尻込みしてしまうのはなぜなのだろうかと思っていたくらいだ。今はどちらかと言えば、肯定的な言葉が多くなって、否定する言葉は少なく、自分から積極的にやりたいことも出来ている様子が見受けられる。肯定する言葉って力があるもんだな。行動より先に言う方がいいんだっけ?トニモカクニモ、友人の身である自分としては相手が忙しくなってしまい、なかなか会えなくなるのは残念なことなのだが、元気に生き生きとしている姿は見ていてこちらも気分がいい。とてもいい感じだ。

帰宅後、他の友人からも連絡が入る。こちらの友人からは、つい最近まで家族間のことで悩んでいて、ハラハラするような暗い発言が聞こえていたが、今は明るい話が多くなってきた。シメシメ。フフフフ。友人たちからは明るい話を聞く機会が多くなって来たぞ。

周りが幸せな空気を届けてくれると、こちらとしても安心だ。相手に余裕があるから、私の危うい際どい思慮深くない言葉が不用意にぽろっとこぼれ出ても問題が少ない・・はずである。相手によって人間関係を保ってもらっているような他力本願の人間である自分としては、この上ない環境になっているなあと喜んでいる。

相手の幸せが自分の幸せという式が成り立つとしたらきっと今の状態のことを指すのだ。自分だけが幸せで何の苦もなく生きていたとして、周りが不幸せのどん底にいたとしたらどうだろう?自分が幸せなとき、周りに「幸せなんだ~」と話したくて仕方がないのに、正直にニヤニヤしながら言うことが出来ない。そんな我慢を強いられるのはつらい。否応なしに幸せの空気を不幸せの空気が襲う。暖かだった空気が急に冷めるように気持ちが冷めてしまうだろう。幸せには温度があるのだ。ワっと沸いて熱したものはガクっと下がる気がする。

もし、自分のことに夢中になってしまっていて、感覚として感じなかったとしても、相手の表情を見て話を聞いて、相手が不幸であるということを自分が頭で理解をしてしまうことは時間の問題だ。

そして、絶好のタイミングを逃してしまう。幸せは幸せなときに味わいたいにもかかわらず、だ。幸せもお裾分けしたいじゃないか。もちろん、それも出来ない。やったら人としてどうかと自分も思うし、相手からもナンダ?と思われる。嫌われていく。相手との人間関係がぷっつり切れる。自分も1人寂しくなり・・・。まだいろいろパターンはありそうだが、悪循環しか浮かばない。

周りが不幸だという環境は、結局のところ、自分の不幸となってしまう。だから、幸せなのがいいねぇ~。幸せは幸せを十分に味わえるときに好きなだけ味わおう。今のうち今のうち。

こうやって書いていたら、遅くになって、最初に登場した友人から連絡が入った。今日の会計が間違っていたんじゃないかとのこと。こちらに多く払わせてしまったと恐縮していたようなので、早速返信した。少なくともこちらは多く払ってない、おそらく、何か間違いがあったのだとしたら、お店が会計を間違えたんじゃないかと思う。ラッキーだったんじゃないか?と伝えてすぐに、友人からの返信は「そうか、良かった。ラッキー!」と幸せそうな様子。だがすぐに気が付いた。お店にとってはアンラッキー。だからもうすでに私の幸せ温度が下がっている。くぅぅ。今度お店に確認してお返しせねば。

では今日はこのへんで。