どこかの誰かに都合の良い日常を描いている人々の中の一人になって生きている今日この頃

ゴミ収集車の鳴らす音楽で目が覚める。いや一度タイマーをかけていたアラーム音で起きたはずなのに、いつの間にかまた1時間位寝てしまったようだ。先週、出歩いてばかりいた疲れがたまっているから良い疲労回復になった、ということにして今日は始まる。

1時間ほどはピアノの練習に取り組めた。最近椅子に座ると80分しかもたない。タイマーなんてかけてないのに、必ずピタッと気が抜ける。集中力がなくなって、トイレに行きたくなるとか、あ、あのケーキが食べたいとか、今日はテレビで映画は何だっけ?とか、頭の中でしゃべり始める。音を聞いていた集中力がなくなって、歌ではなく、言葉を頭の中でしゃべり始めたらもうだめだ。仕方ない、ここまでか。動こうと思って、立ち上がる時は体がバッキバキである。

何とか立ち上がると足が重い。足がどうしてもむくんでしまう。PCに向かって座り続けているときとは違うようだ。ただ座っているときはこうはならない。何でだ?今こうやってPCに入力しているときは、確かに腰の位置が変わっている。前後に無意識に座り直しているようだ。寝ているときの寝返りみたいに、同じ場所に居続けないことで循環しない場所を作らないように体が当たる面をずらして揺らしているようだ。書いているそばから小刻みに、ちょこちょこ移動している自分に気が付く。足の位置も上げたり下げたり、張ったり緩めたり。体ってすごいよなー。

感心してみたものの、ピアノを弾く体はなぜこんなにどっしりと座り込んでしまうのだろうと思ってしまう。先生から「どっしりと安定感を、土台は大事。」とは言われる。素直に座り込んで弾いているのだろう。固めているわけではないけれど、お尻にある骨盤の骨の設置面はしっかり体を支えている。長く弾いているプロの演奏者でも、コンサートでは前半後半とか2部に分けて弾いているし、アンコールがあったとしても、たまに立ち上がってお辞儀したりしているわけだから、80分ぶっ続けの練習をしている私はもしかしたら体にとって当たり前の行動をしているだけなのかもしれない。練習時間がどんどん短くなっているんだと先生にこぼしていたが、私は十分やれているんだろう。そんなものなのだと今日は納得した。

納得したのもつかの間。毎日よくこうやって、しょうもないことを考えては暮らしているなあと思う。考えては書いて、人にも伝えている。読む人はしょうもないことをよく読むんだよなぁ。すごいな~と思わずにはいられない。この私の文字を追ってしまった人は、すでにしょうもないことを見つめて過ごす「すごい人」だ。褒めている、わけでもない。ただ、ほ~っと思う。ブログなんだから褒めた方がいいだろうに、心がイヤイヤとつっつく。なので申し訳ない。ホメレナイ。

自分に度々問う。日記を読むとは何だろう。この忙しい世の中で時間を割いて、わざわざ他人の頭の中を覗こうとする行為ってなんだろうと。書くという行為をしている自分も、なぜ人の目に触れるところで書いているのだろうと思う。人は表現したい欲求があるのと同時に、他人の表現を楽しむ欲求があるのか。そういう欲とは不思議なものである。

うーん。と、うなる。疑問は解決していない。モヤモヤ、ザワザワ。心は正直だ。文字をどんなに上手く綴ったとしても、ダメなときがある。今日はこんなことが書きたかったのか?こんな日もある。天気が悪いから気分が良くない、仕方ないということにしておく。

だが、まだ続く。ブログを書き始めた頃、日記、というもので頭に浮かぶものがあった。学級文庫と呼ばれる、自分の教室内の図書の棚にあった「さと子の日記」である。子どもの頃に読んだことがあるという程度の記憶。病床記のようなものだった。最後どうなったのか覚えていないのだ。子どもの頃に読んだから、衝撃的な最後とかを見て、嫌な記憶として残っているものを消去してしまったのかもしれない。または何か事情が出来て最後まで読んでいないのかもしれない。よく覚えていないのに、頭の中にチラついている。

誰かの日記は、生きるってどういうことなのだろう?という疑問に対しての答えと同義なのかもしれない。読むことで答えを探しているのか?それならば、読まねばならない。まずは「さと子の日記」を、だ。わかって来たぞ。他人の生きるって何だ、というものを知って、自分が生きるってどうよ、とか考えるのか。ふぅぅーん。

自分が生きるってどうよ、って難問である。いつだって答えが変容していく恐ろしいものでもある。ま、考え過ぎると疲れちゃうんでね。疲れたら、ろくなことはない。判断も鈍る。なので、そろそろお昼ご飯を食べようと思う。お察しの通り、単にもう疲れているだけだ。まずはご飯を炊くためにコンロの火を点けた。生きるとは、まず食べること~♪(ランランしてみた)

では今日はこのへんで。